4−20 今は限りの「善峯寺」

ついこの間、就職活動を始めたばかりのような気もするのに、気づけば内定式も終わり、会社からはいろいろな書類が届き、新生活への準備を急かされている。
 
母からは「あんた、そろそろ住む場所考えとかないと」というメッセージが届いた。大学に入学する時は物件探しから引っ越し業者の手配まですべて両親に任せっぱなしだったが、今回はそうもいかないだろう。3月は引っ越しの繁忙期なので、遅くとも2月には、今の部屋の退去も新居の契約も済ませた方がいい。一度物件を探しに東京へ行ってみたらどうか、とも言われた。思っていた以上に、京都にいられる時間は少ないのかもしれない。
 
東京出身のみっちゃんに相談しながら、住むエリアを考えた。東京駅の西側はいろいろ楽しいよ、とか、東側はちょっと下町感があるかも、なんてことを地図を見ながらあれこれ話し、天橋立に行ったばかりなのに、まるで旅行の計画を立てているみたいだった。
 
3月末の卒業式。それがわたしの区切りだと思っていたけれど、大学の講義はもうないし、卒論を提出してしまえば、やるべきことは何もない。バイトだって近いうちに辞めなければいけないし、マンションだって、そう遠くないうちに退去しなければいけない。
 
正直なところ、もう京都に住んでいる理由はほとんどないのだ。今すぐ部屋を引き払って、必要な時だけホテルに泊まった方が、費用は安く抑えられるのかもしれない。
 
あとどのくらい、わたしは京都にいられるだろう。どのくらい、間崎教授のそばにいられるのだろう。こうしている間にも木々の緑は少しずつ薄れ、もみじはゆっくりと色づいていく。いつもなら心躍らせる季節なのに、今年はほんの少しだけ憎らしかった。教授と毎年続けてきた紅葉巡りも、きっと今回でひと区切りになるだろう。
 
 
 
 
 
天橋立旅行のお土産を渡したいです。
 
そう間崎教授に連絡したら、『昼に教授室に来て』と返事が来た。久しぶりに会えると浮かれていたら、『ついでに進々堂でパン買ってきて』と続けざまにメッセージが届いた。
 
『お昼ご飯ですか』
 
『君の分も買ってきていいから』
 
『わたし、パシリですか』
 
『お金は渡すから』
 
はたしてそういう問題だろうか。きっとこれは「一緒に昼食を食べましょう」というお誘いなのだろう。そう都合よく解釈して、わたしは自転車を走らせた。
 
進々堂に入ると、サンドイッチやベーグルなど、さまざまなパンが並んでいた。どれにしようか散々迷ったあげく、ベーグルを二つとサンドイッチを三つ購入した。少し買いすぎた気もするが、お金は教授が出してくれるし、あまったら持ち帰ればいい。食い意地が張っている自覚は、もちろんある。
 
教授室をノックしようとしたら、中から話し声が聞こえてきて手をとめた。来客かと思ったが、耳をすませても教授の声しか聞こえない。音を立てないように気をつけながら、扉を少しだけ開けた。隙間から部屋をのぞくと、教授が誰かと電話しているのが見えた。
 
その柔和な表情に、どきりとした。声が、いつもより弾んでいる。少し前までのわたしなら、気づかなかったかもしれない。だけど今のわたしには、残酷なまでに普段との違いが分かってしまった。
 
その場で動けずにいると、教授と目が合った。怒られるかと思ったけれど、教授は携帯電話を耳にあてたまま、おいで、とでもいうようにわたしを手招いた。わたしは遠慮がちに部屋に入った。
 
教授は「では、また」と言って電話を切ると、いつも通りの顔でわたしに向き直った。
 
「おつかれさま」
 
「おつかれさまです。はい、これ」
 
 わたしは動揺を隠しながら、パンの入った袋を差し出した。
 
「ありがとう。……多くないか」
 
「わたしのおやつも入ってます」
 
「ああ、そう」
 
レシートを渡すと、教授は少し多めにお金をくれた。単純なわたしは、たったこれだけで機嫌がよくなる。教授はわたしに紅茶を入れ、自分にはコーヒーを用意した。もうあたたかい飲み物の季節だ。
 
「どうだった、天橋立は」
 
「すごくきれいでした。これ、お土産です」
 
クッキーを渡すと、教授は「いいね」と嬉しそうに笑った。本当にこの人は、甘いものがすきなのだ。そう思ったら、自然とわたしまで笑顔になった。
 
わたしたちはパンを食べながら、天橋立についての話をした。海風がとても心地よかったこと。ゴーカートに乗ったこと。海鮮丼がおいしかったこと。伊根の舟屋に感動したこと。教授は時折、わたしの話をそっと受けとめるように相槌を打った。
 
「もうすぐ紅葉ですね。早いなぁ」
 
壁にかけてあるカレンダーを見ながら、わたしは言った。あと一週間もすれば、早いところでは盛りを迎えるだろう。今年はどこに行きますか。そう尋ねようとしたら、教授が先に口を開いた。
 
「今年は、十輪寺を中心にまわります」
 
まわりませんか、ではなく、まわります、と言い切るところが教授らしい。
 
「いいですけど、何で?」
 
「君の卒論に役立つから」
 
「なるほど」
 
在原業平に関係がある場所、ということは知っているが、詳しくはどうだったか。また調べておかなければ、と頭の中でメモをする。
 
「楽しみですね、今年も」
 
紅茶を飲みながらそう言うと、教授は静かにうなずいた。今年で最後になるかもしれない。来年はどうなるか分からない。だからこそ、後悔しないような写真を撮ろう。悔いのない日々を、教授と過ごそう。
 
窓の外では、色づき始めた木々がやわらかく揺れていた。
 
 
 
 
 
気温は日ごとに下がっていき、11月の下旬になると、紅葉も盛りを迎えていた。
 
その日はいつもより早く起きて、いつもより念入りにメイクをした。3日前から決めていた服に着替えて、ヘアアイロンで軽く寝癖を直した。髪はもうずいぶん伸びて、肩につくくらいになっている。ちょうど、教授と出会った頃の長さだ。卒業式を迎える頃には、もう少し伸びているだろうか。
 
部屋で待っていても落ち着かなくて、待ち合わせの10分前には高野の交差点に着いてしまった。頬を撫でる風は冷たい。わたしは深く息を吐いて、マフラーをきつく巻き直した。ポーチから手鏡を取り出して、乱れた前髪を軽く直し、ファンデーションがよれていないことを確認する。携帯電話を一度見てから顔を上げると、遠くから紺色の車が近づいてきた。
 
運転席の教授と目が合い、わたしは小さく会釈をした。車はゆっくりと速度を落とし、わたしの前で停まった。
 
「おはようございます」
 
助手席に乗り込むと、教授は「おはよう」と微笑み、静かに車を発進させた。
 
車内にはゆったりとした洋楽が満ちている。わたしはちらりと教授の横顔を見て、それからすぐに目を逸らした。
 
こうして教授の車に乗るのは、1回生の時に正寿院へ連れていってもらって以来だ。まだ出会ったばかりだったのに、よくもまあ、あんなに図々しく助手席に座れたものだと、今となっては感心すらしてしまう。
 
「わたし、運転免許取ったんですよ」
 
沈黙を埋めるように口を開くと、教授は「知ってる」と素っ気なく答えた。
 
「途中で交代しましょうか」
 
「絶対にいやだ」
 
「冗談ですって。でも、教授が東京に来る時は乗せてあげます」
 
「東京で車は必要ないだろう」
 
「それもそうでした」
 
「どうせペーパードライバーになりそう」
 
「わたしもそんな気がしています」
 
窓から見える景色はもうすっかり秋の色に染まっている。まだ一ヵ月も経っていないのに、みっちゃんと行った天橋立が、もう手の届かないくらい遠くに感じた。夏に教授と食べた川床料理の味も、西芳寺で見た緑の深さも、こんなにはっきり覚えているのに。時間は前へ進むばかりで、どれほど願っても過去に戻ることはできない。そんなあたりまえの事実が、わたしの胸を押し潰そうとしている。
 
卒論の進み具合、バイトで出会った変な客、子供の頃に撮った写真、去年見た紅葉の鮮やかさ。気がつけば、わたしたちはこれまでのことばかり話していた。卒業したあとどこに住むのかとか、どんな仕事をするのかとか、未来の話題はいくらでもあるのに、ふたりとも少しも触れなかった。
 
1時間ほど車に揺られ、ようやく最初の目的地に到着した。駐車場から境内の入り口へ向かうと、大きな山門がわたしたちを出迎えた。
 
「すごい迫力ですね」
 
カメラを手に見上げると、首の後ろが痛くなった。山門の中央には「善峯寺」と書かれた額が掲げられ、その両脇では金剛力士像が鋭い目をこちらへ向けている。
 
「なんだか、ものすごく広そう」
 
「境内は3万坪あるからね」
 
「3万坪ってどのくらいですか?」
 
「東京ドーム2個分以上」
 
「すごっ」
 
善峯寺は、平安時代中期に源算上人によって開かれたという。紅葉だけでなく、桜やあじさいの名所としても知られているらしい。
 
観音堂と呼ばれる本堂にお参りをしてから、赤や黄色に色づく道を進んでいった。街中よりも空気が澄んでいるのが分かり、わたしは大きく深呼吸した。肌に触れる空気の冷たさが心地いい。
 
深まった秋に背中を押されるように、わたしはカメラを構えた。シャッター音は軽く、わたしの鼓膜を優しく揺らす。画面を確認すると、小さな四角の中に目の前の景色がすっぽりと収まっていた。
 
写真がすきだ、と改めて思う。教授と京都を巡るのはもちろんすきだけれど、そのずっと前から、目の前の景色を写真に残してきた。カメラを手にしていなかったら、わたしの大学生活はまったく違うものになっていただろう。きっと、こんな風に教授と過ごすこともできなかった。
 
卒業したら、写真を撮る機会は今より少なくなってしまうかもしれない。わたしの写真を見て採用してくれたのだから、仕事でカメラを使うこともあるだろう。だけど、この先のことはまだ何も分からない。
 
鐘楼堂の近くまで来ると、市内の景色が一望できた。冴え渡る青空が、わたしの視界いっぱいに広がっている。
 
「いい眺めだな」
 
教授の隣で息を整えながら、わたしは黙って空を見つめた。
 
金福寺でも、こうして教授と一緒に広い空を眺めた。初めて教授に案内してもらった場所。初めて、京都の魅力を知った場所。わたしの写真を見た教授の瞳が、星みたいにきらきらしていた。
 
3年以上前のことなのに、あの日見たものは今も鮮明に覚えている。きっと、写真を撮ったからだ。このカメラが、わたしの記憶を繋ぎとめてくれたのだ。
 
歩いていくと、地を這うように幹を横へ伸ばした、めずらしい形の松があった。
 
「これは遊龍の松」
 
「遊龍?」
 
「龍が遊んでいるように見えることから名づけられた。国の天然記念物にもなっているんだよ」
 
確かに、その姿は長い胴を横たえた大きな龍のようだ。雲龍図といい、飛龍観といい、京都では龍と出会う機会が多い。
 
わたしは遊龍の松に向かってカメラを構えた。長すぎて、すべてを画面に収めることはできない。だけど松の向こうの紅葉が写り込んで、これはこれで悪くない。
 
多宝塔や経堂など、目に留まるものを一つずつ写真に収めながら、順路に従って進んでいった。山の斜面に広がる境内では、紅葉の進み具合も場所によって違い、真っ赤に燃えている木もあれば、まだ青葉を残している木もあった。どこを切り取ってもまったく違う写真が撮れるので、何度シャッターを切っても飽きることがない。歩けば歩くほど眼下の街並みは小さくなり、空はますます広がっていく。このまま天まで上っていけるような気さえした。
 
前方に、四方が開けた東屋のような建物が見えてきた。柱の向こうには京都の街並みが広がり、中央には座った女性をかたどった銅像が置かれている。建物のまわりにはいくつもの椅子が置かれ、腰を下ろして景色を眺められるようになっていた。
 
けいしょう殿、とわたしは入り口に掲げられた文字を読んだ。
 
「この銅像、桂昌院ですか?」
 
「正解」
 
教授が満足そうに笑った。
 
確か、今宮神社でも桂昌院のレリーフを見た。徳川家光の側室で、綱吉の生母。京都の数々の社寺の復興に力を尽くした人物だと、以前教授に教えてもらった。
 
「ってことは、善峯寺の復興にも桂昌院が関わったんですか?」
 
「そういうこと」
 
点在していた知識が一本の線になって繋がる。高校生の頃までは、ばらばらの出来事をただ頭に詰め込むようにしか学べなかった。だけど本来、歴史上の出来事はすべて地続きで、一つの大きな物語のようになっているのだろう。そのことに早く気づいていたら、もっと勉強が楽になっていたのかもしれない。赤シートで隠したり、単語帳を作ったりすることに、あれほど必死にならなくてもよかったのかもしれない。
 
わたしと教授は近くの椅子に腰掛けた。歩き続けたせいで足は重く、しばらく立ち上がれそうにない。
 
乾いた風が心地よくて、だんだんと目蓋が下がってきた。このままここでじっとしていたら、そのうちわたしという存在が自然の中に溶けていくような気がした。五感は研ぎ澄まされ、呼吸の音も心臓の音もいつもよりはっきりと感じるのに、意識だけがどんどん沈んでいく。なんとなく、生命が終わる時もこんな風なのかもしれないと思った。
 
隣に座る教授を見た。教授の茶色い髪が風に揺れている。その横顔からは、何の感情も読み取れない。
 
「何を考えているんですか」
 
そう尋ねたけれど、教授は何も答えなかった。わたしもそれ以上聞かなかった。
 
「そろそろ行こうか」
 
その声で、沈みかけていた意識がふっと現実へ引き戻された。教授は腕時計に目を落とし、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
 
「十輪寺に行く前に、昼食を食べないと」
 
「そうですね」
 
わたしも教授に続いて立ち上がり、上ってきた道をたどるように下りていった。
 
気づかれないようにそっと、前を歩く教授へ手を伸ばした。だけど指先は虚しく宙をかくだけで、どこにも触れることはできなかった。わたしは目を伏せ、何も言わずに教授のあとを歩き続けた。
 

テーマ #寺院
季節 #秋
花・植物 #紅葉

正式名 善峯寺
別称 西山門跡
山号 西山
宗旨 天台宗系単立
宗派 善峰観音宗
寺格 本山
本尊 十一面千手観世音菩薩 2躯
創建 長元2年(1029年)
住所 京都市西京区大原野小塩町1372
アクセス

http://www.yoshiminedera.com/information/access/index.html

入山時間

土日祝日8:00・平日8:30 ~ 17:00(16:45受付終了)

拝観料

・大人:500円
・高校生:300円

・小中学生 :200円
元旦6:30~8:00は特別拝観料をお納め頂きます。

TEL 075-331-0020
URL http://www.yoshiminedera.com
参考 最新の情報はHP等でご確認ください。

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