4−12 心は我に「祐斎亭」
日々は川の流れのように過ぎていく。穏やかな日が続くかと思えば、濁流みたいに荒々しい時もある。就職活動が終わって気がゆるんだのも束の間、教習所へ通いながら卒業論文を進める日々は、思いのほかわたしの首を絞めるものだった。
車の運転は想像よりずっと難しい。世の中こんなに多くの人が運転しているのだから、わたしもそれなりにできるだろうと思っていた。しかしいざハンドルを握ると、S字カーブも駐車もうまくいかず、筆記に関してもひっかけみたいな問題が多く出てきて、いまいち要領がつかめない。
それと並行して、卒業論文という最大の試練もある。一応なんとかテーマは決まり、間崎教授にメールで提出したものの、9月末には中間発表が控えている。それまでに少しでも進めておくべきなのだが、残念ながら雲行きは怪しい。
そんなこんなで、最近は教習所と図書館を往復する日々が続いていた。教習所で蛇みたいな運転をしては教官を困らせ、パソコンに打ち込んだ文字を眺めては首を傾げるという、小学生の自由研究みたいな作業を繰り返している。本当にこれで免許が取れるのか、こんな調子で卒論を進めていいものか。目蓋の裏に教授の不機嫌そうな顔がちらちらと浮かんでは消えていった。
今日も図書館に来てはいるものの、ただ座って資料を眺めるだけで時間が過ぎていく。そもそも卒論とはどんなものなのかすらよく分かっていない。机の上に頬をつけていると、ちょうどそばを通った教授と目が合った。幻覚にしては、わたしを見る冷ややかな目があまりにも生々しい。
「こんなところで寝るな」
「寝てません」
わたしは慌てて体を起こし、乱れた髪を手で整えた。どうして一番気を抜いている時に会ってしまうのか。どうせなら真剣に資料と向き合っている時に現れてほしい。もっとちゃんとメイクをしてくればよかった。ファンデーションが取れていないか気になって、思わず頬に手を伸ばす。教授の視線が開きっぱなしのノートパソコンに向いていることに気づいて、わたしは咄嗟にそれを閉じた。
「何で隠すんだ」
「いえ、なんとなく」
「どうせ卒論が進んでいないんだろう」
「違います。ちゃんとできてます」
「ああ、そう」
教授は白けた表情でその場を去ろうとする。わたしは慌てて立ち上がり、「待ってください」と教授を引き留めた。
「あの、天龍寺に行きませんか」
「何で」
「だってほら、しばらく嵐山には行ってないじゃないですか。あと、達磨図も見てみたいし」
どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもよく分からない。教授は案の定「いやだ。暑いし」と容赦なく拒否した。自分の提案は百パーセント飲ませるくせに、なぜわたしからの誘いにはこうも後ろ向きなのか。
「じゃあ、かき氷。かき氷食べましょう。このあいだ、みっちゃんにすごくおいしそうなお店を教えてもらったんですよ」
ほら、と携帯画面にかき氷の画像を表示させる。教授は吟味するように画面を見つめていたが、やがて「また連絡して」とだけ言い残して去っていった。
なんとか約束を取りつけたことに安堵し、わたしは再び腰を下ろした。四回生になってから、教授の講義を受ける機会もなくなり、前よりずっと顔を合わせることが少なくなった。残念ながら教授の方から誘ってくれることは稀なので、こちらから積極的に動かなければ、会う機会はぐんと減ってしまう。みっちゃんとかき氷に感謝しなければ。
その夜、日程調整のために連絡すると、教授から「祐斎亭にも行かないか」と誘いがあった。
『元々は千鳥という料理旅館だったが、今は染色アートギャラリーのようになっているそうだ』
暑いとかなんとか言いながらも、結局乗り気になるのが教授らしい。もちろん行きます。そう返事をすると、教授が10時に見学予約を取ってくれた。
わたしの心なんて単純なもので、一つ楽しみがあると、あれだけいやだった教習所通いも卒論制作も頑張ろうという気持ちになってくる。たとえちょっと嫌味な教官にあたっても、思うように卒論が進まなくても、約束のことを考えたら「まあいいや」と思えるのである。
当日はまだ残暑厳しく、歩いているだけでも肌の奥底に熱がこもっていくようだった。
嵐山といえば桜や紅葉をイメージする人も多いだろうが、近年は外国からの観光客もさらに増え、9月の平日でも混雑している。
1回生の冬にも、教授と一緒に嵐山に来た。あの日は凍えそうなほど寒くて、少し歩くだけでも肌が冷えていったのを覚えている。祇王寺の静けさや、常寂光寺から見える京都タワー、美しくライトアップされた竹林や渡月橋。あの時見た風景も感じた温度も、昨日のことのように覚えているのに。いつの間にか時は流れ、わたしだけタイムスリップしたような気分だ。
昼間に見る渡月橋は、染めたような青空と、背後の山々の深い緑、そして川のきらめきが合わさって、おとぎ話に出てくるような健やかさがあった。夜の渡月橋も幻想的だったけれど、昼の眺めもさわやかで好みだ。
桂川沿いを歩いていたら、右手に祐斎亭の看板が見えた。ゆるやかな階段を上っていくと、教授から聞いていた通り、料亭のような入り口があった。
「教授も来るのは初めてなんですよね」
「ああ。前から来てみたいと思っていたんだ」
何年も京都に住んでいる教授ですら、まだ訪れたことのない場所がある。わたしはあと半年で、どれだけの場所に行けるだろう。どのくらい京都のことを知り、どれだけシャッターを切ることができるだろう。今のように写真を撮れなくなっても、教授はわたしに価値を見出してくれるだろうか。一緒にいる理由を、見つけてくれるだろうか。
時間になり、係の人に案内されて室内に入った。最初の部屋に入ると、猪の目のような形の窓からのぞく緑が、磨き上げられた机の上に反射していた。まるで机にぽっかりと穴があいているみたいだ。わたしは興奮で声が出ない代わりに、教授の腕を何度も叩いた。
「見てる。もう見ているから」
教授がうとましそうにわたしから距離を取る。
大きな窓から見える庭では、鮮やかな薄い布が天女の羽衣みたいにはためいていた。さまざまな色に染まった布は、まるで変わりゆく空のようだ。時折ミストが漂い、雲海の中にいるのかと錯覚してしまう。
「ここは川端康成が逗留し、『山の音』を執筆した部屋らしい」
「こんな部屋にいたら、いい物語が書けそうですね」
その姿を想像しながらシャッターを切ると、まるで川端康成がそこに佇んでいるような気がした。過去と現在、決して交わるはずのなかった縁が、糸のようにそっと結ばれていく。
部屋の中を移動すると、机の上の反射も変化していった。先ほどは丸窓からのぞく緑が映っていたが、今は色とりどりの布が揺らめいている。どんどん映り込みが変わるので、何度シャッターを切っても撮り足りない。
次の部屋では、大きな丸窓が連なっていた。先ほどの部屋より室内が暗い分、机に反射した緑がより一層際立っている。どの窓から見える木々も同じはずなのに、角度が変わると表情がわずかに違って見えた。まるで映画館に座って、いくつものスクリーンを眺めているようだ。木々の緑が優しく揺れると、テーブルの上の青葉も共鳴していく。
「単体ではよく見るけど、こういう丸窓が連なっているのって、めずらしい気がします」
「確かにね」
わたしたちは自然と声を潜めた。少しでも大きな音を立てたら、目の前の景色がふっと陽炎のように消えてしまうような気がした。
わたしはカメラを調整し、丁寧にシャッターを切った。1回生の頃、室内と外の明暗差が大きい場所では、なかなか要領がつかめなかった。それなのに今はもう、迷わずに指が動く。
無意識に自分の髪を撫でた。一度切った髪はなかなか伸びなくて、自分の意思でそうしたはずなのに、ほんの少しだけ後悔が滲んだ。隣にいる教授はちっとも変わっていないのに、わたしだけ輪郭が変わっていく。4回生になり、髪型が変わり、教授に対する気持ちも、あの頃のようにまっさらではない。この木々のように、未来への希望だけに満ちていたらいいのに、わたしの心はさまざまな色が混ざり合っている。アイシャドウの色を確かめる時の手の甲のようにじんわりと汚れて、誰にも見せることができない。
「絶景テラス」と名づけられた空間では、鮮やかに染められた布がはためき、目の前を流れる桂川と嵐山がパノラマみたいに広がっていた。お抹茶を味わっている人たちの姿も見える。庭に降りると、黒い机に水が張られていて、そばには「あなたが創るオリジナル水鏡」と書かれていた。
「筆遊びにて水波紋を作り、世界で1回きりの景色をお楽しみください、だと」
教授が説明書きを読み上げた。わたしたちは備えつけの筆を手に取って、そっと水の表面を撫でた。それぞれ違う大きさの波紋が広がっていき、水面に映った緑がゆらりと揺れる。
「印象派の絵画みたいですね」
クロード・モネの「睡蓮」が頭に浮かんだ。筆を水に浸しただけで、まるで絵描きになったみたいだ。「いいたとえだ」とつぶやいて、教授も自分の作った波紋を満足そうに見ている。
近くには「水風鈴」と名づけられた水琴窟があった。器の中に柄杓で水を注ぐと、染み出した雫が壺の中で響いていく仕組みらしい。自分の手で模様や音を生み出すと、子供の頃に戻ったようだった。何も考えず、ただ無邪気に砂をすくい、ピアノの鍵盤を押し、絵を描いていたあの頃、わたしは今より純粋だったのだろう。
画廊のような廊下を通って2階に行くと、染色作家である奥田祐斎氏が手がける「夢こうろ染」のギャラリーがあった。洋服やストールなどの作品が展示され、中には販売されているものもある。
「この着物を見てください」
係の人に言われ、わたしたちは青い着物に注目した。照明があたった瞬間、青がふっと赤へと移り変わる。
「すごいな。どういう仕組みなんですか?」
そう尋ねた教授の声がいつもより少し高くて、未知のものにそっと触れる瞬間の喜びがほのかに香った。
「これが夢こうろ染。太陽を宿す神秘の染めです」
係の人によると、「夢こうろ染」は光をあてると色が変化するという独自の染色技法で、国内のみならず海外でも高い評価を受けているそうだ。祐斎亭ではスカーフやジーンズの染色体験も行っているらしい。
「魔法みたいですね。どっちの色も素敵です」
「今度来る時は、染色体験をするのもいいな」
何気ない教授の言葉に、はっとした。その時、わたしはそばにいるのだろうか。それとも、知らない誰かと行くのだろうか。そんな勝手な考えが泡のように浮かび、ぱちぱちと弾けていくのだった。
幻想的な景色と美しい染め物を存分に堪能して、わたしたちは祐斎亭をあとにした。
さっきまで薄暗い部屋で緑の反射を眺めていたせいか、日差しが急に鋭さを取り戻し、祐斎亭のすずやかな空気が少しずつ暑さに浸食されていった。
「思った以上に素敵なところでした。いつもとちょっと雰囲気が違って新鮮だったし」
「天候を気にせず楽しめるのもいいな」
桂川は熱と光を含んで白み、眺めていると目の奥がちかちかと痛くなった。わたしは力を込めて目をぎゅっとつぶり、それから大きく開いて、その白さに慣れようとした。教授は汗一つかかないすずしげな様子で、青葉の陰影が落ちる地面をなぞるように歩いていく。暑いとか不満をこぼすわりに、佇まいは外気に左右されない。まるで全身に薄い膜が張られていて、世界から教授を守っているみたいだった。
「かき氷、食べにいきません?」
思わず教授に手を伸ばしかけたが、その動きは胸の内だけにとどめ、代わりに声だけを届けた。
「すごくボリュームがあるから、お昼は食べずに行った方がいいらしいです」
「さすが、食べ物のことになると詳しいな」
「一言余計なんですよね」
羽根のような会話はひらひらと宙を舞う。意味を持たない言葉は音符のように連なって、わたしたちの歩みを自然と速めていった。夏のにおいを孕んだ風が、わたしの首筋をするすると撫でる。その風に背中を押されるように、わたしたちは次の目的地へと向かった。
| 名称 | 嵐山 祐斎亭 |
| 住所 | 京都府京都市右京区嵯峨亀ノ尾町6 |
| アクセス | 京福嵐山駅より徒歩10分 JR嵯峨嵐山駅より徒歩20分 阪急嵐山駅より徒歩20分 |
| TEL | 075-881-2331 |
| 営業時間 | 季節によって変更あり |
| 定休日 | 季節によって変更あり |
| URL | https://yusai.kyoto |
| 注意 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |