4−2 朧月夜の「東寺」
日が沈むまでの時間を、わたしたちは京都駅の喫茶店で過ごした。渉成園で撮影した写真を確認し、そういえば去年の桜はどうだった、あそこの桜も素敵だった、またあの場所にも行ってみたい、なんてことを川の流れのように話し、桜の話題が終わったら青もみじの話、それが終わったらあじさいと、四季をころころ変えながら続けた。
就職活動の話は、しなかった。卒業後どこに行くの。何がしたいの。そう聞かれたくないから、わたしは話し続けたのだ。未来のことなんて考えたくない。別れの話なんて、したくない。だからわたしは必死に話題を探すのだけれど、相変わらず思いつくのは京都と写真のことばかりで、みっちゃんに話すような些細なこと――「どうでもいい」と一蹴されそうなくだらないこと――を、口に出す勇気はないのだった。3年経ってもこんな調子じゃ、あと1年過ぎたところで、大きな変化はないのだろう。わたしと間崎教授の関係は、ある意味完成してしまったのだ。これ以上、前に進むことはない。
空が暗い色に塗り替えられた頃、東寺に着いた。境内に入ると、黄金に光っている五重塔が、水面に逆さに映っているのが見えた。
「すごいですね」
感嘆の息を漏らすと、教授は「きれいでしょう」と自慢げに言った。まるで、この景色が自分のものであるような言い方だった。
まだ境内に入って数歩しか進んでいないのに、人々は足をとめて五重塔を凝視している。携帯電話やカメラを向け、飽きることなくシャッターを切っている。わたしも首にかけたカメラを持ち上げた。この一瞬を、永遠に閉じ込めておきたかった。
東寺は平安京造営にともない創建された官寺で、正式名称は教王護国寺というそうだ。弘法大師ゆかりの寺院で、仁和寺、神光院とともに「京の三弘法」の一つだという。
「弘法大師って、空海のことですよね」
高校生の時に習った知識を、記憶の底から掘り返す。「弘法にも筆の誤り」ということわざを知っている人も多いだろう。
歴史や文学を学んで何になるの。この間、テレビで芸能人が言っていた。以前教授も、「文学は何の役にも立たない」と講義で言ったことがある。だけど、役に立たないものこそが心を揺るがし、人生に影響を与えるのだと。その言葉の意味が、ようやくわたしも分かった気がする。
きっとわたしは今、かつて学んだことの答え合わせをしているのだ。あの時のあれはこういうことだったのか。そうやって、昔得た知識を取り出して、新たに知ったことと組み合わせ、もう一度体の中に取り込む。そうすることで、知識はわたしの目となり耳となる。
歩いていくと、より一層人々の目を引いている桜があった。案内板を見ると、「紅枝垂れ桜」と書いてある。まるで夜空に傘を広げているようだ。それを見上げる人たちは、祈りを捧げているようにも見える。
「弘法大師の『不二の教え』から、不二桜と呼ばれているんだよ」
「不二の教え?」
「元来仏教では『ふに』と読むが、『ふじ』と読む場合は唯一無二という意味だ。会社の名前でもあるでしょう」
「もしかして、あのお菓子とか洋菓子の?」
またもや答え合わせができてしまった。パズルのピースがハマるような爽快感と納得感に、思わず笑ってしまう。
わたしは、この時間がすきだ。高校生の時、授業中に眠ってしまうこともあった。テスト勉強が苦痛だった。勉強なんてしたくないと泣いたこともあった。机に向かうことが、いやでいやでしかたなかった。それは大学に入っても変わらなくて、高校までと比べて楽しく感じることも増えたけれど、やっぱり昼下がりは睡魔にやられて、試験前には苦しんで、もういやだと愚痴を吐いている。わたしは、間崎教授がわたしだけに教えてくれるこの知識が、どうしようもなくすきだった。
講堂に入ると、大きな仏像が何体も佇んでいた。まるで自分が小人になったようだ。
「すごい迫力ですね」
平凡な感想を述べると、「それ、どこでも言っていないか」とやわらかく指摘された。そう言われても、迫力があるものに「迫力がある」以外何を言えばいいのか分からない。
「講堂は密教を伝え広めるために建立された建物で、立体曼荼羅はその教えを視覚的に表したものなんだ」
わたしの方に体を寄せながら、教授が小さな声で言った。
「大日如来を中心に五智如来。右側に、金剛波羅蜜多菩薩(こんごうはらみったぼさつ)を中心にした五大菩薩、左側に不動明王を中心にした五大明王。須弥壇の四方には、四天王、梵天、帝釈天が配置されている」
「わたしって、まだ知らないことばっかりなんですね」
京都に住み始めて、丸3年が経つ。知っていることも増えたけれど、知らないことも山ほどある。あと1年で、どれだけ知識を増やせるだろう。どれだけの「美しい」を、集められるだろう。果てない海を想像し、その広さに胸が高鳴るとともに、決してすべてを手に入れることができないという事実に、深く絶望してしまう。
再び外に出ると、夜風に寒さが染み込んでいて、自然と首が縮こまった。同時に眩しさを感じて見上げると、薄雲から丸い月が顔を出したところだった。
「どうして、月が見たいなんて言ったんですか」
教授からもらったメッセージを思い出し、ふと尋ねた。お月見なら9月だと思いますけど。それにここなら、月というより夜桜だし。そう長々しくつけ足すと、教授は答える代わりに空を見上げた。そのまま黙り込むので、時がとまってしまったんじゃないかと思った。
「この間、夜道を歩いていたんだ」
長い長い沈黙のあと、教授はようやく口を開いた。
「少し寒くて、早足で歩いていたら、急に眩しくなったんだ。見上げたら、雲の隙間から月が出ていた。街灯のない森の中だと、月の光はとても明るく見えるそうだ。……普段あたりまえのようにあるから、気づかないけれど」
教授の意図が読み取れず、わたしは困った。確かな回答になっていないと思った。だってこんな、何の脈絡もないことを言うなんて、そんなの、まるで。
「月が見たいと思ったんだ。君と」
その時、教授がどんな表情をしているのか、逆光でよく見えなかった。わたしは全身の血液が脈打つのを感じた。冷えた指先が熱を持って、生を強く叫んでいた。
3年前、茂庵で教授と出会った時から、わたしは何も成長していなかった。この人のことを分かっていたつもりで、ちっとも分かっていなかった。勝手に決めつけて、勝手に線を引き、勝手にさみしくなっていた。
これからはもっと、あなたに伝えたい。道端に咲いた花のこと。空にかかる虹のこと。紙で手を切ったり、野良猫がケンカをしていたこと。月が、きれいだということ。
他人だと思っていたのは、わたしの方だったのか。
正式名称 | 八幡山金光明四天王教王護國寺祕密傳法院 彌勒八幡山總持普賢院 |
別名 | 教王護国寺 |
山号 | 八幡山 |
院号 | 祕密傳法院 |
宗旨 | 真言宗 |
宗派 | 東寺真言宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
創建 | 延暦15年(796年) |
住所 | 京都市南区九条町1 |
アクセス | JR「京都」駅から徒歩約15分 近鉄「東寺」駅から徒歩10分 市バス19,78系統「東寺南門前」バス停からすぐ 市バス42系統「東寺東門前」バス停からすぐ |
拝観時間 | 午前5時 開門、午後5時 閉門 |
拝観料 (庭園・神像館共通) |
【金堂・講堂】500円 五重塔公開時別途要 |
TEL | 075-691-3325 |
URL | https://toji.or.jp |
参考 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |