4−1 花の下にて 「渉成園」

月が見たい。
 
そう言われた時、わたしはその言葉の裏側に隠されている意味を、宝探しのように見つけようとした。「月がきれいですね」が愛を伝える隠語であるように、何か別の意味が含まれていないか、なんて、都合よく咀嚼しようとした。
 
たとえばこれが、同世代の男性から送られたメッセージだったらどうだろう。わたしが、カメラを持たない無趣味な人間だったら。そしたら、砂に混じったきらきら輝く鉱物のような、小さな望みを持てたかもしれない。だけど、そんな一縷の希望は桜のようにはかないと、今のわたしは理解していた。
 
わたしはカメラを持たずに間崎教授と会うことはできない。たとえそれが叶ったとしても、写真や京都のことを話さずには過ごせない。たとえば紙で手を切ったことや、野良猫がケンカをしていたこと。そういう、くじ引きの5等賞のような出来事を、わざわざ伝えることはできない。
 
カメラが趣味でよかったと思う。そのおかげで、わたしは教授と接点が持てた。間崎教授が、わたしの大学の教授でよかったと思う。そして、写真をすきな人でよかったと。だからこそわたしたちは縁ができ、一緒にいる理由ができた。誰かに関係性を問われた時、言い訳をするのは簡単だった。卒業したらきっと、わたしたちの関係は簡単に消えてしまうのだろう。砂の上に書いた文字のように、容赦なく波にさらわれてしまうのだろう。
 
間崎教授は、時折人を試すような物言いをする。「桜を見にいこう」と言い出した場合、「桜の写真を撮りなさい」という意味であるし、「どこそこに寄ろうと思う」と言った場合は、「あなたも来なさい」という強引な命令であったりする。まるで国語の読解問題のようだ。そういう教授なりの言い回しにはずいぶんと慣れて、たとえば学生に伝える「よかったですよ」がどの程度のものなのか、「大丈夫です」が本当か嘘か、本音と建前、微笑みの深さ、疲れ具合などはなんとなく分かるようになっていた。飄々としているように見えて、案外顔に出やすいことも知っている。
 
教授との付き合いが長くなればなるほど、他の学生たちから見る教授の印象と本人は乖離しているように感じた。例えるなら、他の学生たちはテレビの画面越しに教授を見ている。教授の雰囲気は知っていても、テレビの裏側でどんな言葉を発し、どんな表情をしているのかは決して分からない。わたしは教授を同じ空間にいる人間として見ている。確かに実在し、わたしと同じように生活をしていると知っている。だけどきっと、それもあと1年だけだろう。卒業したら、わたしは教授がいる舞台から下り、決して手の届かない人として教授を認識するのだろう。
 
わたしと間崎教授の関係は、時計の長針と短針みたいなものだ。重なりそうで重ならず、重なったと思えば一瞬でまたずれる。その重なりを、1秒でも長続きさせたいと思った。深く息を吸えば、その分長く遠く息を吐けるように。体の中に巡っている甘い空気を吐き出して、最後の一滴まで絞り出したら、望んだ変化が得られるかもしれない。章が変わるように、新しい何かが生まれるかもしれない。そう思いながら、わたしは教授からのメッセージを読む。月が見たい、その一言に、ほんの一滴でも甘い味が含まれていないか。サンタクロースを信じる子供のように探してしまう。叶わないと知っているのに。
 
 
 
 
 
渉成園の桜はちょうど満開で、息を吸うと春のまろやかな香りがした。カメラを持ち上げ、シャッターを切る。角度を変えてもう一枚撮ると、隣にいた間崎教授が顔を傾けた。わたしは写真がよく見えるよう、カメラを教授の方に差し出した。途端に、教授のまとう空気がやわらかくなる。あ、と思った瞬間には教授は遠く離れて、手を伸ばしても届かない距離にいる。よかったと息を吐き、でも、心の端っこには物足りなさを感じて、その感情をごまかすように、わたしはカメラをのぞき込む。よかったよ。その一言がほしくて、わたしは完璧な写真を撮ろうとする。完璧なものなんて、この世のどこにも存在しないのに。
 
渉成園は東本願寺の飛地境内地(とびちけいだいち)で、周囲にからたちが植えてあったことから、枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれているそうだ。平日だからだろうか。京都駅から近いわりに、そこまで混雑は見られない。撮影しやすくてよかった。息がしやすくて、よかった。
 
桜が咲くのとほぼ同じタイミングで、私は大学4回生になった。昨年までは、早く桜が咲いてほしいと思っていた。満開の桜を写真におさめたい。そう思いながら、指折り桜の開花を待っていた。だけど今年は、そんな子供のような無邪気さは薄れ、ある種のおそれと憐みを持って桜を見ている。
 
散ってしまうのだ、この花は。
 
去年、原谷苑に行った時も、散らないでと祈った。終わってしまうからこそ魅力があるのだ。花も、小説も、青春も。そう、教授は諭すように言った。人は永遠に続くものよりも、刹那的なものに惹かれてしまう生き物なのだ、と。
 
そうかもしれない。わたしが今恨めしくって、さみしくって、指先から体温が奪われていくような感じがするのは、今という時間に終わりがあるのを知っているから。だからわたしはここに来たのだ。一秒でも長く一緒にいたいから、月が出るより早く、渉成園へ誘ったのだ。
 
振り向くと、すぐそこに京都タワーが見えた。こんな街中にあるのに、渉成園の敷地内には過去にタイムスリップしたような風景が広がっている。ここだけは、現実と隔離された別世界のようだ。そうだったらいいのに。
 
「なんだか、贅沢ですね」
 
「贅沢?」
 
「こうしてゆっくり桜を見ることが。最近だとあたりまえになっていますけど、高校生の頃はこんな時間なかったもん」
 
「意識しないと、難しいのかもしれないね」
 
そうだった。わたしは1回生の時も、桜をじっくり見られなかったのだ。来年のわたしはどうしているだろう。また忙しくなって、桜を撮る時間なんてないのかもしれない。その時わたしはどこにいて、どう生きているだろう。
 
大学を卒業したら、就職すると決めた。大学院には行かない。人生の新しいステージに進もうと決意した。だけど具体的に何がしたいのか、どこに就職したいのかはまだ何も決まっていない。
 
どこにだって行けるし、何をしたっていい。そう、間崎教授は言う。わたしも誰かに相談されたら、同じように言うだろう。だけど芯のないわたしは、ふらふらと心もとなく揺れるばかりだ。
 
「桜の写真も、ずいぶん集まったんじゃないか」
 
印月池(いんげつち)を眺めながら、教授が言った。
 
「そうですね。1回生の時撮りにいけなかったのが悔やまれます」
 
わたしは腰まで伸びた髪をいじりながら答えた。3年前は慣れない新生活にあくせくして、カメラを持つことすらできなかった。今だったら、決してそんなことはしないのに。この3年間で、写真というものの優先順位がぐんと上がった。わたしの人生に、なくてはならないものになった。
 
教授は、何か変わりましたか。そう問いかけてみたかった。わたしと過ごす日々は、あなたにとってどんな時間でしたか。かけがえのないもの、とまでは言わなくとも、大切な時間になりましたか。出会った頃と、形が変わっていたらいい。何も変わらないでと願いながら、そんなことを思ってしまう。
 
わたしは教授の横顔を見つめる。正しい言葉を選べないから、声に出すことはできない。こうして隣にいるだけで、わたしの想いが伝わればいいのに。
 
どうしたの。そう尋ねるように、教授が振り向く。わたしは何も言わずに首を振った。応えてほしいなんて、今は思わない。壊れるくらいなら、何もしない方がいい。
 
桜がはらはらと散っている。間崎教授と過ごす最後の1年が、始まろうとしていた。
 

エリア #京都駅周辺
テーマ #寺院
季節 #春
花・植物 #桜

正式名称 渉成園(枳殻邸)
通称名称 枳殻邸(きこくてい)
住所  京都市下京区下珠数屋町通間之町東入ル東玉水町
電話番号 075-371-9210(東本願寺本廟部参拝接待所)
アクセス JR「京都」駅下車、徒歩約10分
市バス「烏丸七条」下車、徒歩約5分
京阪電車「七条」駅下車、徒歩約10分
地下鉄「五条」駅下車、徒歩約7分
営業時間 9:00~17:00(受付終了16:30)
11月~2月は拝観時間9:00~16:00(受付終了15:30)
庭園維持寄付金 大人 700円以上、中高生 300円以上、小学生以下 無料
URL https://www.higashihonganji.or.jp/about/guide/shoseien/
参考 最新の情報はHP等でご確認ください。

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