4−14 人をも身をも「天龍寺」
かき氷で冷えた体は歩くうちにまた熱をため込んで、天龍寺の門が見える頃には呼吸が浅くなっていた。長辻通を行き交う人の波は途切れることがなく、そのまま吸い寄せられるように門の奥へ流れ込んでいく。
参道に足を踏み入れると、脇に塔頭がいくつも連なり、境内の広さが伝わってきた。
「やっぱり人が多いですね」
「有名だからな」
若い女の子たちから老齢の男女まで、歩いている人たちの年齢層はさまざまだ。外国人のツアー客らしき集団もいて、天龍寺の知名度を実感する。
庫裏に足を踏み入れた瞬間、大きな達磨図と目が合った。等持院で見たあの顔と、同じような圧でこちらを睨んでいる。
「普通、このくらいは知っているはずなんだが」
「今知ったからいいじゃないですか」
嫌味ったらしい間崎教授に、わたしはむきになって言葉を返した。嵐山はわたしの生活圏から外れていて、気軽に行ける場所ではない。3年以上京都に住んでいても、常に意識していなければ、すべての場所を網羅するのは難しい。
わたしは達磨図にカメラを向けた。こうしてじっくり向き合うと、にらめっこをしているような気分になる。
「等持院のものと、作者は違うんですか?」
「ああ。等持院が関牧翁氏で、こちらは平田精耕氏」
「そっくりですね」
人の写り込まない角度を探しながらシャッターを切った。等持院で撮った達磨図と、また比べてみるのもいいかもしれない。
庭園にある大きな池は曹源池というそうだ。暑さとは裏腹に後方に見える山々はじんわりと赤く染まり、季節が進んでいることを知らせている。
天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために開創したのが始まりだという。「天龍」という名は、尊氏の弟である直義が見た夢に由来するらしい。
「どんな夢ですか?」
「天龍寺の南を流れる大堰川に、金色の龍が舞う夢だ」
「縁起がよさそうな夢ですね。何もかもうまくいきそう」
「そうだとよかったんだが、夢と現実はまた別だ」
教授は肩をすくめた。
「尊氏らの寄進だけでは、造営の費用が足りなかったんだよ。そこで途絶えていた元との貿易を再開して、その収入でまかなった。しかもその後、8回も火災に見舞われたんだ」
「そんなに大変なことがあったなんて、想像つかないです」
目の前に広がる庭園は苦労を知らない顔で、ただ静かに光を受けている。建物と違い、曹源池庭園は約700年前の原型を留めているそうだ。変わっていくものもあれば、変わらないものもある。
わたしの教授への想いは、どっちだろう。わたしのこの気持ちは、風邪みたいに一過性のものなのだろうか。このまま想いを告げずに京都を離れたら、いつの間にか消えてなくなってしまうものなのだろうか。
方丈を一周したあと、わたしたちは庭園へと降り立った。大方丈の正面に立つと、曹源池を隅々まで見渡すことができる。
「あそこにある、滝のように組まれた石が見えるかい」
わたしはじっと目を凝らし、「見えます」と答えた。
「あれは龍門瀑(りゅうもんばく)といって、中国の故事にある登龍門になぞらえたものだ。登龍門は分かるね?」
「あの、急流を登った鯉が龍になるっていうやつですよね」
「そう。普通、鯉を表す鯉魚石(りょぎょせき)は滝の下に置かれているんだが、ここでは滝の流れの横に置かれていて、龍と化す途中の姿を表しているんだ」
わたしは感心しながらカメラを龍門瀑に向けた。先ほどまで単なる石だと思っていたのに、教授の説明を聞いたあとだと、鯉が龍の姿に変わっていくように見えるからふしぎだ。
教授がいなければ、きっとわたしはこの写真を撮らなかった。いつだって、どこに行ったってそうだ。カメラを持っているのはわたしで、構図を決めるのもわたし。けれど、わたしだけでは撮れなかった写真がたくさんある。教授と離れても、わたしは同じように写真が撮れるだろうか。京都から去ったわたしは、一体どんな写真を撮ればいいのだろう。
庭園を見てまわったあとは、雲龍図を見るため法堂へ向かった。一歩足を踏み入れて天井を見上げると、大きな龍が悠々と泳いでいた。
1回生の夏、ひとりで建仁寺に行って双龍図を見たことがある。あの時は広角ズームを持っておらず、その場にいた人に借りて写真を撮ったっけ。ここでは撮影ができないので、しっかり目に焼きつけなければ。
「これは八方睨みの龍。どこからでも目が合うだろう」
「ほんとですね。確か、毘沙門堂にもありましたよね」
「よく覚えているな」
京都にいると、あらゆるところで龍を見る。古来、龍は仏法を守護する象徴とされている。また、水の神ともいわれることから、火災から法堂を守る役割も果たしているそうだ。
わたしたちはしばらく椅子に腰掛けて、じっくりと雲龍図を眺めた。こうして教授と京都を巡るのは、上桂に行った時以来だ。あの時は就職活動真っ最中で、焦りや不安がつきまとっていた。
だけど今日は違う。境内を歩き回った足は疲労をため込んで重たいけれど、心はあの時よりずいぶん軽い。
「花灯路の時も素敵でしたけど、今日の嵐山もすごく楽しかったです。祐斎亭も新鮮だったし、かき氷もおいしかったし、天龍寺の達磨図も見れたし」
「それはよかった。就活中は顔が死んでいたからな」
「そんなにですか」
自覚はしていたが、いざ教授にそう言われると、そこまでひどい顔だったのかとショックを受けた。上桂に行った時、わたしはちゃんと楽しめていただろうか。せっかく連れていってもらったのに、浮かない顔をしていたのなら、ずいぶん失礼だっただろう。
「考えすぎない方がいいんだよ、何事も」
「……そうかもしれません」
天井の龍は諭すような目でわたしをじっと見ている。この龍も、わたしに何かを伝えたいのかもしれない。後ろ向きになるなと、叱っているのかもしれない。
教授とこうしていられるのは、あと半年ほどしかない。それなのに、分かりもしない未来のことを考えて落ち込んでいたらもったいない。
「わたし、こうやって教授と京都を巡る時間が、すきです」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。どんな風に伝わっても構わないと思った。どれだけの時間をともに過ごしても、傷つくのがこわくて何も聞けないし、この感情のすべてを声に出すことはできない。だけど、それでも、ほんのひとかけらだけでも、この人に伝えたいと思った。
振り向くと、教授はわたしの言葉を受けとめるように微笑んでいた。その笑みを見たら、心を侵食していた黒い影が、すっと薄らいでいくような気がした。
「今年も紅葉が楽しみだな」
「はい」
わたしは大きくうなずいた。毎年紅葉を見に行くことが恒例になっているわたしたち。来年はどうなるか分からない。もしかしたら、今年で最後なのかもしれない。だとしても、そうだとしても、この縁は続くと信じたい。
「せっかく来たんだから、竹林の小径もまた行きたいです。新しいお店も増えてるみたいだから、もう少し見たいな」
「そうだな」
答えながら、教授が椅子から腰を浮かせた。
「その前に、何か食べないか。かき氷が消化されてきた」
「食いしん坊ですね」
「君のが移った」
「何ですか、それ」
わたしは立ち上がり、教授と肩を並べて歩いた。いつまでもこうしていたい。こうして、ふたりで京都を歩いていたい。そんな幼稚な願いを抱きながら、進んでいく季節を想った。
| 正式名称 | 霊亀山天龍資聖禅寺 |
| 山号 | 霊亀山 |
| 宗旨 | 臨済宗 |
| 宗派 | 臨済宗天龍寺派 |
| 寺格 | 大本山、京都五山第一位 |
| 本尊 | 釈迦三尊 |
| 創建 | 康永2年(1343年) |
| 住所 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 |
| アクセス | 京福電鉄嵐山線「嵐山」駅下車前 |
| 拝観時間 | 8時30分~17時 [受付終了16時50分](庭園受付・北門受付) 《特別早朝参拝》庭園 |
| 拝観料 |
庭園(曹源池・百花苑) 諸堂(大方丈・書院・多宝殿) |
| TEL | 075-881-1235 |
| URL | https://www.tenryuji.com |
| 参考 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |