4−16 いつしかと「文殊堂

「いい天気だねぇ」
 
運転席でハンドルを操作しながら、みっちゃんが言った。彼女の言う通り空は青く、夏の名残みたいな分厚い雲が飛行船のように漂っている。
 
「ほんと、晴れてよかった。運転任せちゃって大丈夫?」 
 
「平気平気。琴子は免許取ったばっかりでしょ? 長距離はあたしに任せて」
 
車を運転しているみっちゃんは、いつもよりずっと大人びて見えた。彼女の言葉に甘えて、わたしは助手席のシートに背中を預けた。
 
10月末。かねてからの計画通り、わたしとみっちゃんは1泊2日の旅行に出かけていた。目的地は、日本三景に数えられる天橋立だ。府外に行くことも考えたけれど、お互い春には京都を離れるし、せっかくなら京都を旅行しようと思ったのだ。
 
「間崎教授には言った? 天橋立行くって」
 
「うん。お土産よろしくって言われた」
 
「ちゃっかりしてるわ」
 
車はまっすぐな道を滑るように進む。この先に、まだわたしの知らない京都が待っている。そう考えたら、冒険に出発するみたいにどきどきした。
 
わたしの知らない景色を、しっかりカメラにおさめたい。10年後も20年後も、みっちゃんとこうして旅行したことを思い出せるよう、記憶の宝箱に閉じ込めたいと思った。
 
休憩を何度か挟みつつも、朝早く出発したおかげで、10時過ぎには天橋立に到着した。コインパーキングに車を停めて外に出る。周囲を軽く歩いてみると、まだ開いている店は少なかった。観光客の姿もまばらで、落ち着いた雰囲気が漂っている。
 
「ねぇ、お寺があるよ」
 
みっちゃんの声で顔を上げると、すぐそこに大きな門があった。石碑には「天橋立智恩寺」と刻まれている。わたしは案内板に近づいて、文字を追った。
 
「『知恵の文殊』と呼ばれるところなんだって。切戸の文殊とか、九世戸の文殊とか、いろいろ呼び名があるみたい」
 
「文殊って、あの『三人寄れば文殊の知恵』の?」
 
「そうなのかも」
 
門の軒には赤い提灯がぶら下がっていて、「文殊堂」と書かれている。
 
「おもしろそう。行ってみよう」
 
「あ、みっちゃん。待って」
 
わたしは慌ててカバンからカメラを取り出した。門を撮ろうとレンズを向けたら、みっちゃんが「撮って、撮って」と言いながら、ピースをして飛び跳ねた。かわいいな。わたしはくすりと笑い、その笑顔を写真におさめた。
 
こうしてカメラを持ってみっちゃんと出かけることはめずらしい。今まで風景ばかり撮っていて、人を撮ることはほとんどなかった。もっと写真を残せばよかった。ふたりで過ごした時間も、ちゃんと形にしておけばよかった。
 
門を抜けると、本堂へ続く石畳がまっすぐ伸びていた。両脇には松が並び、わたしたちを導くみたいに影を落としている。左手には立派な多宝塔があり、右手には小さな地蔵が並んでいた。
 
「あっ、見て」
 
みっちゃんが突如声を上げた。近づいてみると、松の木に小さな扇子がぶら下がっている。よく見ると、「大吉」「中吉」などと書かれていて、どうやら扇子型のおみくじらしい。
 
「かわいいね。引いてみようよ」
 
わたしたちは正面にある本堂へ向かった。どうやらここが文殊堂で、本尊の文殊菩薩が祀られているようだ。手を合わせたあと、さっそく「すえひろ扇子おみくじ」を引いてみた。幸運なことに、ふたりとも大吉だ。幸先がいいねと笑い合い、他の人と同じように松の枝につるした。
 
松の木の近くには、風呂釜のような手水鉢があった。案内板には「鉄湯舟(てつゆぶね)」とある。
 
「鎌倉時代に作られたもので、国の重要文化財なんだって」
 
「こんなところに湯船って、意外すぎるわ」
 
みっちゃんはそう言いながら、興味深そうに鉄湯舟を眺めた。
 
「お寺とか神社って難しいイメージあったけど、こうして見るとおもしろいんだねぇ」
 
「そうでしょ」
 
わたしはなぜか自分が褒められているようで、誇らしい気分になった。わたしも、間崎教授に出会うまではそう思っていた。今生きている時代はすべて歴史の積み重ねなのに、それはどこか自分とは無縁のようで、学ぶことを避けてきた。でもいざ触れてみれば、思っていたほど遠いものじゃない。祖父母の話と同じように、自分たちの生活と密接に関係しているし、現代の娯楽みたいにおもしろくもある。
 
「もっといろいろ見てみよう」
 
みっちゃんは「そうだね」と大きくうなずいた。この場所にふたりで来るのは、これが最初で最後かもしれない。そう考えたら、この場所のことをもっと深く知っておきたいと思った。
 
鉄湯舟の反対側には宝篋印塔があった。「この石塔は、いつの頃からか和泉式部の歌塚と伝えられている」と、みっちゃんが読み上げる。
 
「いつしかと待ちける人に一声も聞せる鶏のうき別れかな」
 
わたしは声に出して和泉式部の和歌を読んだ。
 
「そういえば貴船神社にも、和泉式部の歌碑があったなぁ」
 
「そうなの?」
 
「うん。1回生の時、お母さんと一緒に行ったの」
 
恋多き女性といわれる和泉式部は、情熱的な恋の和歌をたくさん詠んだことで知られている。
 
あの時は、恋なんて自分に無縁のものだと思っていた。それなのに、今はこんなにも身近にある。
 
「琴子は本当に、いろんなところに行ってるよね。あたしも連れてってもらえばよかった」
 
「今してるよ」
 
「そうだった」
 
わたしたちは顔を見合わせて笑った。きっと何かを始めるのに、遅すぎるということはない。
 
宝篋印塔から少し歩くと、大きさの違う三つの石が並んでいた。祭りの余興などで力自慢の青年たちが石を持ち上げて、その力を競い合ったという「力石」だ。
 
「こんなの絶対持ち上げられないよ」
 
一番小さな石を持ち上げようとして、みっちゃんはすぐに「だめだ」と音を上げた。わたしも試してみたが、どう頑張っても持てそうにない。この石に触ると力と知恵が授かるそうなので、とりあえずじっくり触れておいた。
 
未知の場所は、どうしてこうも好奇心をくすぐるのだろう。地元の大学に進学していたら、こんな風にどこかに出かけていただろうか。間崎教授に出会わなかったら、京都を巡りたいと思っただろうか。きっと、みっちゃんとこうして旅行に来ることもなかったのだろう。
 
今という時間は、小さな奇跡の積み重ねだ。きっと京都に来なければ、これほど多くの写真を撮ることもなかった。就職先だって違っていたかもしれない。大学生になるまで、わたしにとって写真は単なる趣味に過ぎなかった。フォトコンテストに応募することもなければ、落選して悔しいと思うこともなかっただろう。それなのに、わたしはもうカメラがなければ生きていけない。このカメラはわたしの一部で、写真を撮らなければきっと、わたしをわたしと証明することはできないのだろう。
 
「ねぇ、あっちに知恵の輪があるって!」
 
早く行こうよ。みっちゃんが手招きしてわたしを呼ぶ。その笑顔を見たら、みっちゃんと初めて出会った時のことを思い出した。
 
 
 
 
 
彼女に出会ったのは大学の入学式だった。慣れないスーツを着て緊張していたわたしに、声をかけてくれたのがみっちゃんだった。まだ黒髪の学生が多い中、みっちゃんはひまわりのような金髪で、その美貌と完璧なスタイルも相まって、誰よりも目立っていたのを覚えている。
 
仲良くなれるわけない、というのが彼女の第一印象だった。だってわたしとみっちゃんはあまりにも違う。みっちゃんはいわゆる「一軍女子」で、その場にいるだけでまわりの空気を変えてしまうような華やかさを持っていた。対してわたしは、みっちゃんのように華もなければ要領もよくない。共通点は学部が同じであること、春からひとり暮らしを始めたこと、それくらいしかなかった。たまたま隣にいたから話しかけてくれただけで、きっと入学式が終わればだんだんと疎遠になるのだろう。そんな風に思っていた。
 
その考えが変わったのは、入学式から2週間ほど経った頃。文学部全体で親睦会があった日のことだった。場の盛り上がりについていけず、あたりさわりのないことを話してはひそかにため息をついていると、みっちゃんがわたしの隣にやってきた。
 
「楽しんでる?」
 
みっちゃんはそう尋ね、わたしは「まあ」とあいまいに返した。聡い彼女はきっと、その一言でわたしの本音を見抜いたのだろう。
 
「一緒に抜けよっか」
 
返事をする前に、みっちゃんはわたしの手を引いて立ち上がった。わたしたちは幹事の男の子に一言伝え、逃げるように外に出た。空は暗く、月と星が冴え冴えと光っていた。
 
コンビニで飲み物とお菓子を買い、鴨川デルタへと走った。別に急ぐ理由なんてなかったし、走る必要もなかった。走っているうちに、わたしたちは自転車をコンビニの前に置いてきたことに気づいてげらげらと笑った。お酒なんて飲んでいないのに気分は高揚し、酔うってこんな感じなのかなぁ、なんて子供みたいな話をしたのを覚えている。
 
「あたし、ああいう場所ちょっと苦手」
 
ポッキーを鼠のようにかじりながら、みっちゃんがぽつりとつぶやいた。意外だね。そう返すと、みっちゃんは「よく言われる」と言った。
 
「琴子がいてくれてよかった」
 
その時みっちゃんは初めてわたしのことを「琴子」と呼び、わたしも初めて「みっちゃん」と呼んだ。月明かりに照らされた彼女の頬は桜色にほんのり染まり、人はこういう時に恋に落ちるのかもしれないと思った。
 
わたしの勘はいつもあたらない。茂庵で間崎教授と会った時然り、見た目で人を判断するのは、わたしの悪い癖だ。
 
 
 
 
 
「今行く」
 
わたしはそう答えて、みっちゃんの元へと走った。向かった先には、知恵の輪の形をした大きな燈籠があった。
 
「江戸時代、航海の安全を祈って建てられたんだって」
 
みっちゃんが興味深そうに案内板を読む。久世の渡を守ってきた石燈籠を、文殊菩薩の慈悲の光になぞらえて、地元の人々から智恵の輪燈籠と呼ばれるようになったらしい。
 
わたしたちは知恵の輪の中から景色を眺めた。丸く切り取られた風景をカメラにおさめる。ふと顔を上げると、みっちゃんがわたしをじっと見つめていた。
 
「どうしたの?」
 
「ううん、何でもない」
 
みっちゃんは小さく首を振って、「そろそろビューランドに行こうか」と言った。わたしはうなずいて歩き出した。乾いた風がさらさらと吹き、みっちゃんの金色の髪を揺らしていた。
 

テーマ #寺院
季節 #秋

名称 智恩寺
別名 切戸の文殊、九世戸の文殊、知恵の文殊
山号 天橋山(てんきょうざん)
宗派 妙心寺派
本尊 文殊菩薩(秘仏)
創建 (伝)808年(大同3年)
住所 京都府宮津市字文珠466
アクセス 京都丹後鉄道天橋立駅から徒歩5分
宮津天橋立ICから車で約10分
営業時間

拝観自由

駐車場  8:00~17:00
本堂売場 8:00~17:00
季節、行事により変動があります。

TEL 0772-22-2553
URL https://www.monjudo-chionji.jp
参考 最新の情報はHP等でご確認ください。

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