伏見稲荷大社の狐の石像と赤鳥居。

8 稲荷の杉は「伏見稲荷大社」

ふと目を開けると、わたしは鳥居の前にいた。
 
東の空から煙ったような青白い、生まれたての朝空が広がって、誰にも汚されていない透明な空気が、肺の中に入ってくる。
靄がかかったような頭を動かし、ゆっくりとあたりを見渡した。大きな鳥居と、その奥に見える朱色の楼門。右を見ても左を見ても、ちゅんちゅんとさえずる小鳥以外に、生き物の気配はない。世界にひとり取り残されたような静けさが、毛布のようにわたしを包んでいる。
 
ここはどこだっけ。なんとなく見覚えがあるような、そうでもないような。どうしてここにいるのか、いつの間にここに来たのか、ふしぎなことに何も覚えていない。
 
ふらふらと夢見心地で鳥居をくぐり、楼門へ続く石段を上った。近くで見るとずいぶん立派な門だ。両端には凛々しいきつねの石像が2体、何かを守るように佇んでいる。
 
「そこへ足を踏み入れるでない!」
 
鋭い声が雷のように落ちてきて、わたしは宙に浮かせた右足を引っ込めた。声がした方向を見てみるけれど、朝靄がぼんやりと広がるだけで、やはり人の姿は見えない。もう一度前を向くと、「ここです、ここ」と再び声がした。
 
足元に視線を落としたわたしは、声の主に気づいてぎょっとした。
なんと、そこにいたのは人ではなく、きつねであった。両腕で抱きかかえられそうなほどの小さな子ぎつねが、じろりとわたしを睨んでいる。
 
「一礼もせずに鳥居をくぐるとは、近頃の人間は無礼極まりない。稲荷大神様が嘆くのももっともです」
 
わたしはもう一度周囲を見渡した。やはり他に人影はない。腹話術でもない。しゃべっている。きつねが、確かにしゃべっている。しゃがみ込み、白い真綿のような毛をそっと手のひらで撫でてみる。ああ、なんてやわらかい!
 
「こら、触るのはやめなさい。くすぐったい、こら」
 
子ぎつねはくすぐったそうに身を捩る。抱きかかえようとしたら、もふもふの尻尾で思い切り右頬を引っぱたかれた。意外と痛い。わたしは右頬を手で押さえながら、「すみません」と頭を下げた。
 
「それにしても、なぜきつねがしゃべっているんです?」
 
「言葉を操るのが人間だけだとでも? これだから人間は傲慢でたちが悪い」
 
子ぎつねは乱れた毛並みを整えると、えっへん、と小さな胸を張った。
 
「私は稲荷大神様の眷属(けんぞく)です。稲荷大神様に仕えているということは、すっごくえらいってことなんです。どうです、すごいでしょう」
 
「それはすごいですね。ところでこんちゃん、質問があるのですが」
 
「そんなかわいらしく呼ぶでない、無礼者!」
 
「いたっ」
 
またもやもふもふの尻尾で、今度は左頬をぺしん! と叩かれた。わたしはひりひりと痛む両頬を押さえ、「では、こんさん。……いえ、こん様」と呼び直した。
 
「ここはどこですか? なんとなく見覚えがあるんですけど」
 
「そんなことも知らないとは、あなた、本当に無知ですね」
 
こん様はあきれたように鼻で笑った。この人をばかにしたような表情、なんだか、某教授を思い出す。
 
「ここは伏見稲荷大社。全国に3万社ある稲荷神社の総本宮。御祭神である稲荷大神様は、1300年以上この稲荷山に御鎮座されているのですよ」
 
わたしは今一度そびえ立っている楼門を見上げた。改めて見ると、真ん中あたりに「伏見稲荷大社」という文字が見て取れる。
 
無知なわたしでも、名前くらいは知っている。確か鳥居が無数に立ち並ぶ、観光客に大人気の場所だ。どうして自分がここにいるのか、なぜきつねと意思疎通ができるのかは分からないが、この機会を逃す手はない。
 
「こん様、わたし、伏見稲荷大社を見てみたいです。案内していただけますか」
 
「案内ぃ? なぜ私が人間ごときに……」
 
「稲荷大神様のつかいとして、お願いします」
 
両手を合わせて頼み込むと、こん様は気をよくしたのか、「し、しかたないですね」とまんざらでもなさそうに顔を背けた。
 
「ではまずきちんと一礼し、手水舎で身を清めてきなさい」
 
わたしはにやりと口元を上げた。この子ぎつね、案外ちょろい。
 
 
 
 
 
こん様に導かれ楼門をくぐったわたしは、本殿の前で手を合わせた。
こん様いわく、この本殿は1468年に起きた応仁の乱で一度焼失しているのだという。再興まで31年の時を要したそうだが、そんな悲劇など微塵も感じさせないほど、豪放かつ優雅な趣だ。
 
ところどころにある装飾をじっくり見てみると、その繊細な造りにただただ息を呑むしかない。今では「伝統」と呼ばれる職人の技術は、何百年も前からこうして形あるものを作り、現代に続く価値を与えてきたのね。時が流れ、文化や技術がどれだけ変化していこうとも、その輝きは決して衰えることがない。
 
「ところでこん様。稲荷大神様は、何の神様なんですか?」
 
「五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就の神様です。ご高齢でめったに人前には姿を現しませんが、とても強く、お優しい方なんですよ」
 
こん様はもふもふの尻尾を左右に振りながら、わたしの前を歩いていく。しばらくすると、朱色の鳥居が無数に連なる場所にたどり着いた。
 
「ここは千本鳥居。伏見稲荷の象徴とも言える場所ですね」
 
「すごい……なぜこんなに鳥居がたくさんあるんですか?」
 
「願いごとが『通るように』あるいは『通った』祈願と感謝の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んでいるんですよ」
 
わたしはこん様と並んで鳥居の中を歩いた。どこまでも続く鳥居に、どんどん吸い込まれていくようだ。まるで、別世界に続いているような――
 
「あっ」
 
「どうしました」
 
「わたし、写真を撮るのがすきなんです。この風景を撮りたかったんですけど、カメラを忘れてしまって」
 
「しかたないですね」
 
こん様はあきれたように息を吐くと、どこからか一枚の葉っぱを取り出した。それを頭の上に起き、つぶらな瞳をぎゅっと閉じて、こーん、とひと鳴きする。
 
すると、なんということでしょう、わたしの手元にぽん、とカメラが現れたではないか!
 
「すごい、魔法ですか?」
 
「稲荷大神様のつかいとして、このくらいは当然です」
 
こん様はえっへん、と小さな胸を張る。わたしはカメラをかまえ、試しにシャッターを押してみた。目の前に続く千本鳥居が色鮮やかに写っている。うん、正真正銘、本物のカメラだ。
 
「こん様、こん様。もっともっと教えてください。稲荷山に生えているこの木は、杉ですか?」
 
「いかにも。稲荷山に生えている杉のすべてが、稲荷大神様の御神威が宿っておられる御神木――『しるしの杉』とされています」
 
「しるしの杉?」
 
「そうです。紀州の熊野詣が盛んとなった平安中期以降、その往き帰りには、必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなっていたんです。その際には、稲荷社の杉の小枝、すなわち『しるしの杉』をいただいて、体のどこかにつけることが一般化していたんですよ。『きさらぎや けふ初午の しるしとて 稲荷の杉は もとつ葉もなし』など、和歌も数多く詠まれているんですよ」
 
こん様はすらすらと流暢に説明をする。こんなところも教授に似ているとは。違うのは、見かけのかわいらしさくらいだな、と、わたしはひっそり苦笑した。
 
 
 
 
 
それからも、わたしはこん様に案内されてあらゆる風景を写真におさめた。ひっきりなしにシャッターを切るわたしを見て、こん様はまた、げんなりと愛くるしい顔を歪めた。
 
「なぜ人間はそんなに記録に残そうとするのか。心に残せばいいものを」
 
「記憶はあいまいだから、少しでも忘れないようにしておきたいのです、きっと」
 
わたしはふふ、と笑って、こん様にカメラを差し出した。
 
「見ます?」
 
「あなたが見せたいんでしょう」
 
わたしがしゃがみ込むと、こん様はてくてくと歩み寄り、ひょいっとカメラをのぞき込んだ。カメラに写っている風景を見た途端、くりっとした瞳が、きらきらと星のようにきらめいた。
 
「こん様も撮ってあげましょうか」
 
「い、いやです。魂が抜かれる」
 
「迷信ですよそんなの」
 
こん様はぴゃっとわたしから飛び逃げ、怯えるように前方を走っていく。わたしはくすくすと笑いながらそのあとを追いかけた。
 
 
 
 
 
ふしぎなことに、朝の顔をしていたはずの太陽は西の空へと沈み始めていた。澄んだ青色だった空は鳥居と同じ朱色に染まり、群青、そして完全な黒へと塗り替えられた。
鳥居はまだまだ続いていく。わたしはこん様をぎゅっと抱きかかえながら、こわごわと山を下りていった。
 
「暗いとなんだかおそろしいです。おばけとか出ないですか」
 
「出ませんよそんなもの。出たら、私がきちんと守りますから」
 
こん様は勇気づけるように、わたしの腕に頬をすり寄せた。鳥居の各所につるされている提灯が、ぼんやりとわたしたちを照らしている。
 
これもまたふしぎなことだけれど、鳥居を抜けて本殿へ戻ると、またもや朝となっていた。先ほど沈んだばかりの太陽が、また東へと戻ってきたらしい。白い光が目の奥に染みる。新鮮な風がそよそよとわたしの黒髪を揺らして心地がいい。
 
「案内していただきありがとうございました。さすが、稲荷大神様のつかいですね」
 
腕の中にいるこん様を、労わるように優しく撫でる。こん様は「このくらい、当然です」と嬉しそうにひげを揺らした。
 
「それにしても、たくさん写真を撮りましたね」
 
「京都のことについてたくさん知ろうと、先日、心に決めたんです。こん様がたくさん教えてくださって助かりました」
 
「京都は広い。すべてを知るのは大変ですよ」
 
「はい。でも、師匠がいますから」
 
わたしは強くうなずいた。
ひとりでは、きっと、知ることができない。この、連なる鳥居の美しさに、澄み切った空の清々しさに、目を向けることすらできやしない。だけどきっと、大丈夫。あの人が、教えてくれるから。
 
少し意地悪で、ひねくれていて、だけど優しい。こん様にどこか似ている、博識の教授に会いたくなった。
 
「……人間はきらいでしたけど、あなたのような人もいるんですね」
 
こん様はぽつりとつぶやくと、ぴょん、とわたしの腕から飛び出した。もふもふの尻尾を左右に揺らし、挑戦するように振り返る。誰かさんそっくりに微笑んで、
 
「また会いましょう、琴子さん」
 
 
 
 
 
目の前が暗転したかと思ったら、突如、ぱっと視界が開けた。
 
はっと顔を上げると、そこは伏見稲荷大社ではなかった。長方形の机と椅子がいくつも並び、正面には黒板。西側の窓からオレンジ色の光が降り注いでいる。隙間から吹く風は夏のかおりを含み、白いカーテンをそよそよとなびかせていた。
 
「ようやく起きたか」
 
振り返ると、少し離れた席にいる間崎教授が、読んでいた本から顔を上げたところだった。わたしはあたたかい海に浸っているような、ふわふわとした浮遊感を抱きながら、きょろきょろとあたりを見渡した。
 
「こん様は? 稲荷大神様は?」
 
「何を言っているんだ」
 
「わたし、伏見稲荷大社に行って、それで」
 
「……私の講義中に伏見稲荷大社に行っていたのか。それはいい夢を見ましたね」
 
教授は本を閉じて立ち上がると、呆けた顔のわたしの前にやってきた。笑っているように見えるけれど、これは演技だ。わたしは確実に怒っているであろうその端正な顔立ちを見て、ぱちくりとまばたきをした。
 
今、わたしがいる場所は教室で、黒板に書かれているのは、教授の流暢な文字。わたしは椅子に座っていて、机の上には講義のノートとシャープペンシル。
 
どうやら教授の言うとおり、講義中に眠ってしまっていたらしい。もうお昼休憩ということで、教室にはわたしたち以外の人間はおらず、窓から見える景色にも、生徒の姿はない。
 
ああ、夢だったのか。それにしてはやけに生々しい。わたしはふと、カバンにしまってあったカメラを取り出した。もう癖になっているのかしら、反射的に教授が、わたしと一緒にカメラをのぞき込んでくる。
 
「あ」
 
そこに写っていた景色を見て、わたしは短く声を上げた。
伏見稲荷大社の鳥居を背景に、こん様――いや、きつねの石像が、凛々しい面持ちでこちらを見ていた。
 
 

名称  伏見稲荷大社
主祭神  稲荷大神(宇迦之御魂大神ほか4柱の総称)
神体  稲荷山(神体山)
創建  和銅年間(708年-715年)
住所  京都市伏見区深草藪之内町68
電話番号  075-641-7331
URL  http://inari.jp
アクセス ・JR奈良線 稲荷駅下車 徒歩直ぐ (京都駅より5分)
・京阪本線 伏見稲荷駅下車 東へ徒歩5分

HOME | 物語 | 8 稲荷の杉は「伏見稲荷大社」

夢と知りせば・横書きロゴ

サイトマップ