新緑に包まれる金福寺・芭蕉庵

3 うき我を 「金福寺」

ああ、どうしてこうなってしまったのだろう。
 
恵文社を出たわたしは、海のように波打つ心臓を悟られまいと、きゅっと唇を噛んで、間崎教授の隣を歩いていた。「連れていってください」なんて、勢いとはいえ、ばかなことを言ってしまったわ。だって、お互い顔は知っていたといえ、会話をするのは今日が初めて。大勢いる生徒のうちのひとりでしかないわたしが、いきなり教授に京都を案内してもらうだなんて、差し出がましいことこの上ない。
 
ちらり、と隣を歩く教授を見る。先ほどから、全然会話が続かない。口を開いたかと思えば、その言葉は、泡のように弾けて消えてしまう。言ったそばから消えてなくなる。言葉とは、なんて、儚いのだろう。
 
曼殊院通をひたすら東に進み、入り組んだ小径を辿っていくと、突如石の階段が現れた。そばにある石碑を見ると、「佛日山 金福寺」と刻まれている。ここが、教授の言っていた「金福寺」。わたしの、まだ、知らない場所。
 
階段を上っていくと、右手に「芭蕉庵」と書かれた門が見えた。芭蕉って、松尾芭蕉のことかしら。と、いうことは、金福寺は松尾芭蕉と何か関係があるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にか教授が、ふたり分の拝観料を支払っていた。
 
「すみません」
 
慌てて頭を下げて、パンフレットを受け取る。こうして借りができてしまうのは、なんだかいたたまれない。
 
門をくぐった瞬間、にゃあ、と、かわいらしい鳴き声が聞こえてきた。きょろきょろとあたりを見渡してみると、本堂の縁側で、三毛猫がのんびりとくつろいでいる。わたしたちを迎えるように、眠たげな目を何度もぱちくりさせながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
 
「やぁ、久しぶり」
 
教授は旧友に挨拶するように、三毛猫の背中をそっと撫でた。三毛猫は甘えるように喉を鳴らし、教授の腕に頬をすり寄せてくる。
 
「お知り合いですか?」
 
「金福寺の福さんです。ほら、あなたもご挨拶しなさい」
 
福さん、と呼ばれたその猫は、恋敵を見るような目をわたしに向けた。どうやら警戒されているらしい。初めまして、と頭を下げ、おそるおそる、手を伸ばす。福さんはにゃあ、とひと鳴きし、逃げるように本堂の中へ走っていった。
 
「きらわれましたね」
 
所在なく伸ばされたわたしの手を見て、教授が嘲るように鼻で笑った。そんな、いやな言い方をしなくても。予想外の毒を吐かれ、むぅっと頬を膨らませる。なんだか、いろいろ、腑に落ちない。
 
靴を脱いで本堂に上がったわたしたちは、ぼんやりと、枯淡な庭園を眺めた。皐月の築山と白砂の、簡素な枯山水。観光シーズンを除けば混み合うこともないのだ、と教授が言う。その言葉どおり、わたしたち以外に人影はなかった。聞こえてくる音といえば、ささやくような木々の揺らぎと、福さんの、ひとりごとのような鳴き声だけ。
 
深まった春の、あたたかな光が、砂の一粒一粒を、きらりきらりときらめかせていた。さぁぁ、と、静かに木々を揺らす風が、もう、どうにも心地よい。のっそりと縁側に出てきた福さんは、大あくびを一つすると、また体を丸めて、昼寝を始めた。こうして、ひなたぼっこをしながら昼寝をするのが、福さんの日課なのかしら。ぽかぽか陽気に身を浸しながら、のんびりとまどろむ。それって、最上級の贅沢じゃない。
 
福さんの邪魔をしないように注意しながら、わたしと教授は静かに本堂を降りた。とんとんとん、と靴のつま先で地面を叩いていたら、ふと、門のすぐそばに、何かがあることに気づいた。先ほどは福さんに気を取られ、すっかり見落としていた。柄杓が上に置かれていて、中には水が溜まっている。なんとなく、見覚えがある。確か、蹲(つくばい)という名前だった気がする。だけどなんだか、わたしの知っているものと違う。昔の貨幣を模したような、ふしぎな形をしている。
 

 
「間崎教授、これは何ですか?」
 
思わずそう尋ねると、教授はああ、と、先に進もうとしていた足をとめた。
 
「それは、『知足の蹲』。真ん中の口が共通になっているんだよ。時計回りに読んでみなさい」
 
「『吾唯足知』……われ、ただ、足るを知る?」
 
「そう。知足とは足るを知ること。自分の身分をわきまえて、貪りの心を起こさぬこと。さまざまな寺院にありますが、特に龍安寺のものが有名ですね」
 
講義のような説明に感心しながら、わたしはカメラを手に取った。教授に教えてもらわなければ、きっと、そこに示されている文字すら読めなかっただろう。写真を1枚撮って顔を上げると、隣にいたはずの教授の姿がない。すたすたと先へ進んでいく広い背中が見え、わたしは慌ててあとを追った。
 
「舟橋聖一の、『花の生涯』という本を知っていますか」
 
丘に続く坂道を上りながら、教授が、ひとりごとのように問いかけてきた。尋ねてはいるけれど、きっと、わたしの答えなんて期待していない。その証拠に、わたしが口を開くより先に、あっさりと続きを話していく。
 
「大河ドラマにもなった歴史小説でね。そこに出てくるヒロインの村山たか女が入寺し、生涯を閉じた場所とされるのが、ここ、金福寺なんですよ」
 
「へぇ……小説の舞台にもなっているなんて、素敵な場所ですね」
 
坂の途中で、本堂を振り返る。大きなお寺とは違う、この、ささやかな本堂と庭。大きすぎないこの敷地が、きっと、心が穏やかになる理由の一つなんだろう。ぬくぬくと体を丸める福さんの、穏やかな寝顔が目に入る。猫が落ち着いてくつろげるような静穏さこそが、金福寺の魅力なのだろう。ここを舞台にした小説を書きたくなる作者の気持ちが、分かる気がする。
 
坂を上りきった先に建っていたのは、歴史を感じさせるような、茅葺き屋根の庵だった。わたしたちがここに来るのを、何百年も前から待っていたような。緑の木々に囲まれたその、ずっしりとした佇まいは、懐かしささえわたしに抱かせる。待っていたよ、と、言われたような。
 
「ここは芭蕉庵。金福寺を再興した鉄舟和尚と松尾芭蕉が、風流を語り合ったとされる場所です」
 
「松尾芭蕉がここに来たんですか?」
 
「そう。鉄舟和尚と松尾芭蕉は、親交が深くてね。時とともに荒廃してしまったので、のちに芭蕉を敬慕する与謝蕪村と、その一門が復興したんです。『耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵』という句には、芭蕉の俳諧精神復興を目指す、蕪村の強い決意が込められているんですよ」
 
「……さすが、お詳しいですね」
 
「このくらい普通です」
 
せっかくの褒め言葉も、どうやら素直に受け取る気はないらしい。なんだか、講義の時とずいぶん印象が違う。そうやって縁側に腰かけて、長い足を組む。憂いを帯びた瞳で、遠くにいる誰かを思うように流れていく雲を眺める。その様子はもう、非の打ちどころがないくらい絵になっているし、イメージにぴったりなのだけれど、口を開けば、見た目にそぐわない言葉がぽろっとこぼれる。講義中には決して見せない、素の部分が垣間見えた気がして、なんだかとっても、ふしぎ。
 
教授の隣に腰かけて、しばし静けさの中に身を沈めた。呼吸するような緑に囲まれて、そっと、目を閉じる。風が葉を揺らす音、そして、太陽の光。先ほどよりも鮮明に、わたしの五感を刺激する。春って、こんなに、気持ちのよいものだったのね。
 
ああ、そういえば茂庵でも、こうして新緑に囲まれたっけ。5月初めの出来事を、わたしはぼんやりと思い出す。あの時は、一言も言葉を交わさなかった。目を合わすことすら、しなかった。それなのに、今はこうして金福寺をふたりで訪れ、同じ時間を共有している。これが縁、と、いうやつかしら。それならば、茂庵で出会ったのも、恵文社で出会ったのも、縁ってやつの、仕業かしら。人生、何が起こるか分からない。
 
「……こら、こんなところで寝ないでください」
 
教授のあきれたような声で、ふっと、現実へと意識が引き戻された。目を開けると、隣にいる教授が、眉と眉を近づけてわたしを見ている。
 
「まだ、昼寝には早いでしょう」
 
「ね、寝ていません。目を閉じていただけです」
 
かぁっと頬が熱くなるのを感じて、早口で言い訳を並べた。教授はやっぱり、わたしの声なんて届かないように、さっさとどこかへ歩いていく。少し、たどたどしい、この会話。言葉を交わしているのに、なんとなく、一方通行。遠く離れていく背中は、講義中とはやっぱり違って、なんだか、知らない人みたい。元々、この人のことなんて、何にも知らないのだけれど。そんなことを考えながら、わたしは腰を浮かせ、教授のあとに続いていく。
 
芭蕉庵の裏側に回ると、草木の中で、教授が何かをじっと見つめていた。一体、何をみているのだろう。気になって、後ろからのぞき込んでみる。そこには、俳句の書かれた看板がひっそりと建てられていた。
 
『うき我を さびしがらせよ かんこ鳥』
 
「……なんだか、さみしい句ですね」
 
それは、芭蕉が詠んだとされる俳句だった。かんこ鳥よ、物憂いわたしを一層さみしがらせておくれ、だなんて。芭蕉は、一体何を思って、この俳句を詠んだのだろう。一体何が、そんなに悲しかったのだろう。思いを馳せても、ちっぽけなわたしには想像することすら難しい。
 
「……この俳句が、とても、すきなんです」
 
ぽつり、と、教授の口から漏れたその声は、袋からこぼれ落ちた一粒の金平糖のように小さくて、芭蕉の俳句と同じように、憂いを帯びたものだった。
 
「どうしてですか?」
 
気になって聞いてみたけれど、教授は黙ったまま、それ以上何も語ることはなかった。
 
そのまま奥に進んでいくと、突如、獰猛な風が、皮膚を弾くように襲いかかった。咄嗟に目を閉じて、風が通り抜けてからまた、目を開く。
 
――そこに、広がっていた景色。
 
それは、わたしのマンション。先ほどまでいた恵文社。そして、教授とともに歩いた道のり。すべてが、視界におさまっていた。茂庵では、見る機会を逃したこの、海のように広がる洛中。視界を埋め尽くす、わたしの居場所。
 
ああ、そうか。
これが、わたしの憧れた街なんだ。
 
なぜだかじぃん、と、胸の奥が熱くなった。忙しさに追われて忘れていた。ずっとずっと、憧れていた。だいすきなカメラをしまいこんで、寝る間を惜しんで勉強して、模試の結果に一喜一憂して――そうして、ようやく手に入れた場所。
 
わたしは、京都で、暮らしているんだ。
 
手に持っていたカメラをかまえ、パシャリ、とシャッターを切った。それまでぼんやりと洛中を見ていた教授が、シャッター音に反応したように振り返る。
 
「見ます?」
 
「……あなたが見せたいんでしょう」
 
素直でない言い草にむっとしながら、カメラを教授にぐいっと差し出す。わたしとカメラを交互に見てから、価値を確かめるみたいにのぞき込む。さて、腕前はどんなものか、見てやろうじゃないか、なんて、心の声が聞こえた気がする。でも、そんな脅しに動じるようなわたしじゃない。だってわたし、ずっと、カメラに触れてきたんですもの。平凡なわたしの、たった一つの特技。それがこの、写真なんですもの。
 
夜空のように黒い瞳が、宝石を映したように、輝いた。宝石箱をのぞき込むみたいに、顔をカメラに近づけて、写真の隅々までじっくりと見つめる。好奇心と、感動と、興奮を映したその、瞳。少年のようなその表情を見た瞬間、また、強い風がわたしの心を揺さぶった。
 
「……美しい」
 
ため息のように、教授が小さくつぶやいた。
 
「このくらい普通です」
 
先ほどのお返しをしてやろうと、ここぞとばかりに胸を張る。だけど教授はまだ、カメラから目を離さない。まるで網膜に焼きつけようとしているみたい。心に桜が咲いたように、なんだかとっても嬉しくなって、わたしはもう一度、洛中の景色を眺めた。
 
京都に越してきて2ヶ月が経つのに、ほんのひとかけらも知らなかった。
空がこんなに澄んでいること。雲の動きが遅いこと。風がこんなにも優しいこと。歴史がこんなにも寂しいこと。そして教授の――
 
「……教授」
 
「何です」
 
「京都って、いいですねぇ」
 
「何をいまさら」
 
眼鏡の奥の黒い瞳が、優しく優しく、わたしを包む。そのやわらかい表情に、わたしはつられて、ふひひと笑った。
 
 

名称 金福寺(こんぷくじ)
山号 佛日山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 聖観音菩薩
創建年 864年(貞観6年)
住所 京都市左京区一乗寺才形町20
アクセス 叡山電鉄一乗寺駅、京都市営バス一乗寺下り松バス停が最寄り。
TEL 075-791-1666
営業時間 9:00~17:00
休日 1/16~1/31、8/5~8/20、12/30~12/31
URL なし
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