新緑に包まれる永観堂

4 極楽にゆく「永観堂」

雨の季節は、きらいじゃない。
洗濯物が溜まったり、外にあまり出かけられなかったり、そういう憂鬱感はあるけれど。雨だれの音を聞きながら、ひとりでゆっくりと本を読む時間がすきだから。
 
だけどそれも、ひとり暮らしを始めるまでのこと。連日の雨に洗濯物はどっさりと溜まるし、傘を差して買い物に行くことがいかに大変か知ると、ああ、もういい加減にからっと晴れた空が恋しいわ、と、雲の向こうにある青色を求めることが多くなった。
 
――せっかく京都にいるのだから、いろいろなところを巡りなさい。
 
先日、恵文社にて間崎教授にそんなことを言われてから、そうね、今まで忙しさを言い訳に家から出かけなかったけれど、やっぱり時間を作って外に出なくちゃだめね、と思った矢先の梅雨入り宣言。せっかく取り出したカメラも、なかなか活躍する機会がない。部屋でぱらぱらと観光雑誌をめくっていたら、ふと、永観堂が目に留まった。
 
――永観堂禅林寺は、はるか平安の昔から、阿弥陀様の慈悲の心を守り伝えている場所である。「秋はもみじの永観堂」と言われるほど紅葉の名所で、秋になると観光客で溢れ返る――
 
確か、小学6年生の秋に、修学旅行で訪れた場所の一つが、この永観堂だった。あの時は紅葉の盛りで人も多く、カメラも持参していなかったので、ただ人混みに揉まれて終わってしまった。今思うと、とてももったいないことをしたものだ。
 
では、もし今永観堂に行ったら、一体何があるのかしら。
そんな思いつきと好奇心がむくむくと胸の中で芽生え、次に雨が上がったら、永観堂へ行こうと、ふと、決めた。
 
 
 
 
 
そして迎えた日曜日。
快晴とまではいかないものの、わたしの頭上に冷たい雨が降り出す気配はない。灰色の雲は、いつもの重たげな顔とは違い、今日だけは雨のすきにさせまいぞ、とでも言うように、その大きな体を空いっぱいに広げて、ここぞとばかりに外に出された洗濯物が濡れぬよう守っている。
 
今日を逃せば、次に晴れるのは数日後。洗濯をするにも、スーパーで食材を買い込むにも、絶好の機会。だけどわたしは、すべてを放り出し、カメラを片手に部屋を飛び出した。
 
休日とはいえ、さすがに梅雨の時期だと観光客は少ない。見渡しても、視界に入るのはひとりか、ふたりか。天候の悪さを差し引いても、少なすぎやしないかしら。やっぱり人はみな、真っ赤に燃えたもみじを目当てにここを訪れるものなのかしら。
 
建物も、青もみじも、雨に濡れたせいかどことなくつやっぽくて、なんだか胸がときめいた。雨の時期って、なかなか写真を撮りに出かけないけれど、こんなに世界をきらめかせるものだったのね。お風呂上がりの女性が色っぽい、なんていう男性の気持ちが、少し分かった気がする。こんなことを教授に言ったら、「はぁ?」と眉間にしわを寄せられそうだけど。
 
靴を脱ぎ、書院造の釈迦堂に、そうっと足を踏み入れる。この間は教授がいたから、なんとなく格好がついたけれど、そういえばこうしてひとりでお寺に入るのって、初めてだ。受付でいただいたパンフレットを広げ、きょろきょろと、あたりを見渡す。
 
釈迦堂では、華やかな襖絵をいくつも見ることができる。「松鳥図」や「群仙図」、それに「秋草図」。写真を撮ることができない代わりに、網膜に焼きつけようと、じぃっと、目を凝らす。人間って、どうしてこんなに繊細で美しい絵をはるか昔から描くことができたのかしら。ああ、ここに教授がいたら、もしかしたら何かヒントをくれたのかもしれない、なんて、おこがましい考えが頭をよぎる。
 
きっと紅葉の季節に来たら、足先から冷えていく感覚、とか、しぃん、とどこまでも静かな堂内、とか、そういうことに気づけず、さらりと堂内を一周してしまったのだろう。現に、以前来た時は、そうだった。人がいないからこそ、こうして、じっくりと永観堂の魅力を感じることができるのね。真っ赤に燃えるもみじがなくたって、青々とした新緑がここにある。襖絵だって、「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる廊下だって、1年中、ここにあるのだ。
 
 
 
 
 
釈迦堂を見終えたわたしは、続く阿弥陀堂へと向かった。ほんの少し、薄暗い。ちょっぴり背筋を正して中へ入ると、参拝客が数人いて、お寺の方が、何やらご案内をしている。
 
「――こちらが、『みかえり阿弥陀』でございます」
 
示された先に視線を動かして、あっ、と、声が出そうになった。
阿弥陀像は教科書で何度か目にしたことがあるが、今目の前にあるものは、そのどれとも違う。そこにいたのは、首を左に傾げ、振り向いている阿弥陀様の姿だった。
 
「この『みかえり』には、『遅れるものを待つ姿勢』『思いやり深く周囲を見つめる姿勢』『自分自身を省み、人々とともに正しく前へ進む姿勢』が表れています。真正面からおびただしい人々の心を受けとめても、なお正面に回れない人びとのことを案じて、横を見返らずにはいられない阿弥陀仏様のみ心を、ぜひとも感じてください」
 
まわりにいた数人が、ほぉーっ、と感心したように声を上げた。なんと慈悲深いんでしょう、素敵ね、そうだね、見ることができてよかった――顔を見合わせて、そんな言葉を交わす。わたしはただひとり、声を上げることもできず、阿弥陀様の穏やかなお顔を見つめ続けた。
 
何だろう、この、感覚。
来たことがあるはずなのに、以前来た時と、全然違う。
 
小さい頃から、わたしは日本の文化がすきだった。和柄の小物を集めたり、たまに歴史ドラマを見たり、漠然と、日本という国に興味を持っていた。だけど、だからといってものすごく歴史に興味があったわけではない。お寺や神社や、仏閣がすきだったわけじゃない。旅行のついでに拝観することもあったけれど、ああ、こんな感じか、いい雰囲気だなぁ、なんて、訪れただけで満足して、その場所が持つ意味なんて考えもしないで、分かった気になっていた。
 
京都に来たのだってそう。ただなんとなく、古文や日本史っておもしろいし、雰囲気がいいな、なんて考えて、進学を決めた。ただ、それだけ。
 
――せっかく京都に来たのだから……。
 
先日、恵文社で教授から言われた言葉を、また、思い出した。
ああ、あの人が言っていたのは、こういうことだったのね。だから、金福寺に連れていってくれたのね。
 
その景観を見て満足するのは、きっと、違うのだ。「秋はもみじの永観堂」。有名すぎるフレーズを、頭の中で、繰り返す。もみじももちろん、美しいのでしょう。この庭一面を赤く染めるもみじはきっと、この世のものとは思えないほどの風情があって、すばらしいのでしょう。でも、永観堂は、それだけではない。それだけが、すべてじゃない。
 
――そうでしょう、そうでしょう。
 
わたしの思いにうなずくかのように、目の前のみかえり阿弥陀様は、どこまでも優しく微笑んでいた。
 
 
 
 
 
阿弥陀堂から外に出たわたしは、錦雲橋(きんうんきょう)の上からぼんやりと方丈池を眺めた。
雨に濡れた青もみじがきらきら、きらきらと、わたしを歓迎するように輝いている。もみじといえば赤色。わたしもきっと、心のどこかで思っていた。
 
だけど、この新緑の美しいこと!
雨上がりの世界の、すばらしいこと!
 
こんなに景色がきらめくのなら、洗濯ができなくたってかまわない。傘を差すのだって苦痛じゃない。雨のあとは、とっておきのシャッターチャンスが待っている。そう考えたら、ひとりだっていうのに、ふふ、と笑みがこぼれた。
 
ちょうどその時、ポケットに入れていた携帯電話がメロディを奏で始めた。この音楽は、メッセージではなく電話だ。電話をしてくる相手なんて、いたかしら。今月分の家賃も払ったし、友人や家族の連絡手段はメールだし……。取り出した携帯電話の画面に表示されていた名前を見て、ぎょっとした。
 
電話の相手は、間崎教授だった。先日、写真データを送るために連絡先を交換していたのだが、連絡したのはそれきり。電話をかけてくるなんて、わたし、何か悪いことをしたのかしら。なんだか、胸がどきどきする。恋のどきどきではもちろんない。いやな予感の、どきどきだ。
 
おそるおそる通話ボタンを押すと、いつもよりもっと無機質な声が耳に響いた。
 
『御坂さん、おはよう』
 
「もう昼です」
 
教授という立場の人と電話をするのは、なんとなく、緊張する。だって、そうでしょう。この間はたまたま行動をともにしたけれど、普段のわたしたちは、「教授」と「生徒」でしかないのだから。壇上で講義をする教授の話を、ただ黙って、聞いている。金福寺に行ったあとも、特に会話が増えたわけではないし、講義中、目が合うわけでもない。それなのにいきなり、電話だなんて。
 
しかし向こうは、わたしの繊細な心を微塵も理解していないらしく、いつもどおりの声色で言った。
 
『あなたの力が必要なんです。今から来られますか?』
 
 

正式名称  禅林寺(ぜんりんじ)
通称  永観堂(えいかんどう)
山号  聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)
宗派  浄土宗西山禅林寺派
創建年  仁寿3年(853年)
住所  京都市左京区永観堂町48
電話番号  075-761-0007
URL  http://www.eikando.or.jp
アクセス  ・JR京都駅から京都市営バス5系統「南禅寺・永観堂道」下車3分
 ・JR京都駅から京都市営バス急行100系統「東天王町」下車8分
 ・京都市営地下鉄東西線蹴上駅下車15分
拝観時間   午前9時~午後5時(受付は午後4時で終了)
拝観期間  秋の寺宝展を除く期間(年中無休) 
拝観料   一般:600円、小・中・高生:400円

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