チェルキオのお豆腐メロンパンとブレンドコーヒー

16 君があれなと「チェルキオ」

構内に茂る木の葉が徐々に色褪せ、1枚、また1枚と風にさらわれていくのを、教室の窓からぼんやりと眺めていた。
 
10月になった途端、気温は大して下がっていないのに肌に感じる風は冷たいものに変わって、朝や夜は少し寒いくらいだ。
 
長い長い夏休みが明け、後期の講義が始まった。金曜日、2限目。「日本古典購読基礎論」は、石清水八幡宮の効果もあってか、前期より受講する生徒が増えた気がする。それは、間崎教授がお目当てか、それとも簡単に単位をもらえるからなのか。1番窓際、後ろから3列目。わたしは4月からずっと変わらない定位置でノートを広げている。
 
こつこつと上品な音を響かせて、前方の扉から、ひとりの男性が姿を現した。前回会った時より少し、髪が短くなっている。だけどその、誰よりも整った容姿は変わらないままで、この古びた教室では、なんだか浮いていた。前から思っていたけれど、そう、この人は、この大学では、異質な存在。他のどの教授とも違う。外見だけではなくて、まとっている空気、かしら。波一つない海のような、音のないコンサートホールのような、そんなふしぎな雰囲気を持っているの。 
 
「ずいぶん、久しぶりな気がしますね」
 
そうやって外面だけは穏やかで、上品な笑みをたたえて。わたしも初めは、その外見と穏やかな物腰にずいぶんと騙されたものだ。わたしの方なんて見向きもしない。これは、付き合う中で分かったことなのだけれど、この人は講義中、どこも見ていない。生徒の表情なんて、ちっとも興味を示さない。ただ、教室に漂う埃を追うかのように、ぼんやりと空気を眺め、そして、手元にある教材を、暇つぶしのように読んでいる。
 
だけどこの日は、その分厚い教材を開くことはなく、こんなことを言ったのだ。
 
「この講義は、みなさんの将来に役立ちません」
 
指導者にはあるまじき発言に、教室がざわめいた。友人同士で顔を見合わせたり、首を傾げたりしている。わたしは大して驚きもせず、いつものようにじっと、その顔を見つめている。
 
「文学というものは、就職活動に役立つわけでもないし、なければないで、困ることは何もない。物語というものは、世の中の役に立つようにはできていないのです」
 
そうなのです。この人、どこか、冷めているのです。穏やかとか優しいとか、他の生徒は言うけれど。誰に対しても平等なのは、誰に対しても興味がないからなのです。この人の興味はいつだって、文学や、歴史や、写真にあるのです。
 
「ですが、人の心を動かすものは、いつだって、芸術なのです。言葉や、物語や、写真や、風景や歴史。役に立たないそのものこそが、心を揺るがし、人生に影響を与えるのです。だからこそあなたたちは、単位を取ることにこだわるのではなく、大学の外に飛び出し、いろいろな場所を巡りなさい。せっかく歴史深い土地にいるのだから、ノートを開くより、歴史ある場所を巡り、過去の人々の思いを感じなさい。それがきっと、あなたの将来を大きく変えるでしょう」
 
川の流れのようにさらりと、けれど、岩を穿つ滝のように強い教授の言葉に、誰もが息を潜めて耳を傾けた。それは今までの、よくも悪くも「優等生」な内容とは違う、心からの、言葉に感じられた。
 
教授は机に置いたばかりの教材を手に持ち、にこりと微笑んだ。
 
「ということで、本日の講義は以上。私は今からチェルキオに行ってきます」
 
わっと、教室が沸いた。生徒たちは意気揚々と立ち上がって、談笑しながら教室から出ていく。教授はのんびりと生徒に紛れて去っていく。わたしはため息を一つついて、教授の背中を追いかけた。
 
 
 
 
 
外に出ると、南キャンパスの門前あたりに教授が立っていた。後ろを振り返り、声を出さずにわたしを呼ぶ。わたしが来ることを当然のように思っているのだから、まったく、たちが悪い。
 
「……あんなことを言って。講義の準備をしていなかっただけでしょう」
 
「よく気づいたね」
 
いたずらを見破られた子供のように、教授が口の端を上げた。本当に、ずるい人。
 
「チェルキオって?」
 
「すぐそこにあるパン屋のことだよ。豆腐のメロンパンがおいしくてね。今日は絶対店内で食べようと決めていたんだ」
 
長い足がコンクリートを踏んで動き出す。まだ、他の教室では講義が行われているというのに。
 
「君も行くでしょう、琴子さん。『宿題』の答えを聞かないと」
 
しかたないなぁ、と、肩をすくめ、わたしは教授の隣を歩き始めた。
 
キャンパスにいる大勢の生徒を置き去りに、わたしたちは、外へ飛び出そうとしている。こんなにも空が青いのに、教室に閉じこもることなんてできないの。
 
この夏休みに訪れた場所。おさめた写真。感じた思い。
 
 
 
 
 
ああ、話したいことが、たくさんあるわ。
  

店名 チェルキオ
住所 京都市左京区吉田二本松町54-3 中尾写真館1階
アクセス 京阪電車出町柳駅から約1km
TEL 075-761-7373
営業時間 8:00~19:00
定休日 土曜日・日曜日

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