琴坂

7  琴坂の「興聖寺」

伊藤久右衛門を出ると、あれほど曇っていた空が嘘のように青く染まっていた。初夏の顔をした太陽が、出番を待ちかまえていたように鋭い輝きを放っている。
 
「すみません、またご馳走になってしまって」
 
申し訳なくて頭を下げると、間崎教授は「いいんだよ、このくらい」と、晴れやかな笑みを浮かべた。
 
「ところで、連れていきたい場所があるんだ。ついてきてくれるかい」
 
要するに、「ついてこい」ということである。
なるほど、抹茶パフェを分けてくれたのはこのためだったのか。わたしは忠犬さながらの従順さでうなずいた。
 
 
 
 
 
宇治川の清流にかかる日本三名橋の宇治橋より、川に沿って上流へ約800メートル。歩き疲れたわたしたちを待っていたのは、「琴坂」という木札がかけられた総門だった。
 
「連れていきたかったところとは、ここですか?」
 
教授は答える代わりに微かに笑って、先に総門をくぐっていく。これがきっと、教授なりの肯定なのだと、なんとなく、分かってきたわ。わたしは写真を1枚撮ってから、置いていかれぬようあとを追いかけた。
 
山門に続くゆるやかな坂道は、みずみずしい緑に囲まれトンネルのようだった。覆い被さるように立ち並ぶ木々が、黒い絵の具をこぼしたように、地面に陰影をつけている。木漏れ日がわたしの肌を白く光らせ、少し、目が眩んだ。
 
「春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉。琴坂は季節それぞれに違った美しさを見せてくれるんだよ」
 
「なぜ『琴坂』というのですか?」
 
カメラをかまえながら尋ねると、意地悪な指導者は、「たまには自分で考えなさい」と、ぶっきらぼうにわたしを突き放した。講義中は、あんなに丁寧に解説してくれるくせに。なんだか、わたしにだけ厳しい気がするのは、思い過ごしかしら。今日だって、わたしをいきなり呼びつけるし、まさに今この瞬間も、有無を言わさずここに連れてきている。わたしのこと、何だと思っているの。
 
頬を膨らませながら、教授の数メートルあとを歩いていく。琴坂、琴坂。ぼんやりと緑を眺めながら、心の中で、繰り返す。とっても美しい名前だけれど、どうして琴、が関係あるのかしら。この坂を上った人は、何を思って、そんな名前をつけたのかしら。
 
考えながら歩いていると、先に上り切った教授が、山門の前でわたしを待っていた。早く来なさい、とも、遅い、とも言わない。わたしが隣に来るのを、蕾が開くのを待つように、じぃっと、待ち続けている。もし、わたしが亀のようにのろくって、たどり着くのに膨大な時間を要するとしても、きっと、何も言わずにそこにいてくれる。この人のことなんて何も知らないのに、なぜかしら、それだけははっきりと、確信することができた。
 
わざと歩みをゆるくして、そばに近づいた。ほんの少し、いやがらせをしたくなった。答えをくれない、自分勝手なこの人を、困らせてやりたくなった。だけど教授は、そんなことを気にもせず、わたしを優しく迎え入れ、堪え切れなくなったように、話し出した。
 
「ここは、曹洞宗で修行道場として最初に開かれた興聖寺。この山門は龍宮造りで、正面にあるのが薬医門。その奥にあるのが法堂。『春岸の山吹』『興聖の晩鐘』は、宇治十二景に入るほどの名勝なんだよ」
 
流暢に説明をする教授の顔は、講義の時よりも生き生きとしている。心の底に生まれた興奮と喜びを抑え込んではいるけれど、目の輝きは隠せない。そんな教授を見ていると、なぜだかわたしまで、心が弾んでくるのである。
 
大きな鐘楼の前を通り、受付を済ませて中へ入った。一歩、足を踏み入れた瞬間、ぎしりと沈む足裏から、歴史がすぅーっと心臓のあたりまで駆け上がっていくような気がした。何百年も前にここで過ごした修行僧の気配、それが空気となってわたしを取り囲んでいるのかしら。静かであるのにどこか賑やかで、なんだか、そわそわしてしまう。
 
大書院から見える風景も、髪を揺らすあたたかな風も、どうしようもなく心地がいい。わたしの少し先を歩くこの人の、穏やかな声が、自然の中に溶け込んでいくようで、ああ、きっとわたしは、夢を見ているのだわ、雨上がりの潤った世界で、ふわふわと、まどろんでいるのだわ、なんて、勘違いをしてしまう。長く長く目をつぶって、このまま意識を沈めていきたいけれど、時間をとめるすべを、わたしは持たない。
 
伏見桃山城の遺構を用いて建てられたという法堂は、見上げると手形や足跡がついた血天井があり、廊下を歩くとキュッキュッとおかしな足音が鳴った。「鶯張り」というらしい。名前は聞いたことがあるけれど、興聖寺にあるなんて、まったく知らなかった。君は何にも知らないね、と、困ったように教授が笑う。そんなに笑わなくても、いいじゃありませんか。わたし、京都に来たばかりなんですもの。
 
「ではしっかりと、京都の風景を、そのカメラにおさめるんだよ」
 
ばかにしたと思ったら、そうやって、さりげなく、わたしのやる気を奮い立たせるような言葉を投げかける。この人は、わたしが写真を撮るように、誘導するのがとてもうまい。のせられているのだ、と分かっていても、よし、この人をぎゃふんとさせるような写真を撮ってやるわ、と、カメラを持つ手に力がこもる。
 
 
 
 
 
法堂を抜けたわたしたちが次に向かったのは、祠堂殿(しどうでん)と呼ばれる場所。扉を開けると、目の前に突如、神々しい黄金の聖観音菩薩立像が現れた。
 
「すごい……なんだか、ため息が出てしまいます」
 
「手習観音」とも呼ばれる観音様は、穏やかな表情を浮かべてそこに立っていた。こんなに間近で観音様を見るのは初めてだ。男性のように凛々しく、女性のように優しいそのお顔立ちに、カメラを向けることも忘れて見入ってしまう。
 
「観音様の右足を見てみなさい」
 
秘密の話をするように、教授が息を潜めてささやいた。言われるがままに目を凝らすと、前に出した右足の、親指が少し浮いている。
 
「『衆生の困苦を救うため、すぐに駆けつける』という意志を表しているんだよ」
 
「……奥が深いですねぇ、本当に」
 
足の親指なんて、教授に言われなければ、絶対に見落としていただろう。観音様の荘厳な佇まいであったり、穏やかな表情だったり。普通の人ならば、どうしたってそちらに目がいってしまい、足元を見下ろすことすらしないだろうに。本当に、この人の視点と知識には畏れ入る。
 
ちらり、と、気づかれないように、隣にいる教授を横目で見た。
源氏物語の世界から出てきたような外見と、海のように広くて深い知識を持つ、この人。こんな人の隣にわたしが立っているなんて、よく考えたら不釣り合いなのかもしれない。些細なことに気づく目もなく、授業で習った程度の知識しか持たない。教授より少し優れているのは、写真を撮ること、たったそれだけ。そんな、どこにでもいる普通の、18歳の少女でしかないのに。
 
金福寺に行った時も、三室戸寺でも、そう。わたしはいつだって、愚かな質問をすることしかできない。元々、歴史や古文はすきだったから、他の人よりは知識が多いつもりでいた。それなのにこの人の隣に立つと、自分の無知さが、太陽の下にさらけ出されていくようで、とんでもなく、恥ずかしい。
 
「……教授」
 
「何だい」
 
「どうしてわたしを、ここに連れてきてくださったんですか。また、写真係ですか」
 
「……もちろん、それもあるけれど」
 
おや、どうしたことだろう。教授にしては珍しく歯切れが悪い。わたしが首を傾げると、教授は逃げるように顔を背けた。
 
「君を見ていたら、琴坂を思い出したんだよ」
 
「それって、どういう……」
 
問いかけて、はっと口をつぐんだ。先ほどの能弁さはどこへやら、教授は手習観音様のようにじっと黙り込んでいる。ああ、なるほど、そういうことか。
 
「……教授って、意外と優しいですよね」
 
ひとりごとのようにつぶやくと、教授は「何を、いきなり」と小さな声で吐き捨てた。計り知れない知識を持っているくせに、こういう時だけこの人は、言葉を知らない子供のように、返答に困ってしまうのである。
 
 
 
 
 
太陽が西の空にゆっくりと腰を下ろそうとしていた。まもなく、閉門だ。
カラスの鳴き声を背に受けながら、わたしたちは琴坂を下り始めた。上る時に感じた白い光はオレンジ色へと変化し、どことなく哀愁を感じさせる。風が少し冷たくなって、なんとなく、さみしい。ああ、もうすぐ、1日が、終わってしまう。
 
――なんだか、帰りたくないなぁ。
 
心に生まれたその感情に、びっくりした。そんな、子供のようなことを思うなんて。今日だって、別に宇治に来る予定はなかったし、雨が上がったから、ちょっと出かけてみよう、くらいの気持ちでいたのに。それなのに、どうして、こんなこと。
 
この坂を下り終えたら、川に沿って下流へ約800メートル。教授と待ち合わせた「つうゑん」を過ぎて、電車に乗ったらさようなら。
 
明日からまたきっと、普通の日常が始まる。大学に行って、たまにひとりで京都を巡って、写真を撮って、友だちと何気ないおしゃべりをして。教授は教授で、同じように講義をし、自分の研究に没頭して。今日あったことなんて、なかったように。わたしたちはまた、一教授と生徒Aに戻るのだ。
 
――本当に、それでいいの?
 
どこからか聞こえるこの声は、もうひとりの自分か。それとも、興聖寺の奥に眠った、観音様の声かしら。
 
――茂庵で出会い、一乗寺を巡り、宇治で1日をともに過ごした。それらをすべて、「特別な日」にするつもりなの?
 
ああ、観音様。違うのです。きっと、わたしはそうじゃないの。そんな「特別」はもういらないの。
 
教授と過ごしていて分かったことがある。講義中は穏やかで、口調も丁寧。まるで上流貴族のように上品な微笑み。
 
だけど本当は、違うのだ。無意識なのかは知らないけれど、段々と口調も砕けてきているし、簡単に人を嘲るし、あきれたり、ばかにしたり、いやみを言ったり。教授がこんなひねくれ者であるなんて、一体誰が知っているだろう。いや、きっと、誰も知らない――わたし以外、誰も。
 
足はもう完全にとまっていた。黒髪をさらっていく風が、わたしの背中を押すように、後ろから強く吹いている。ねぇ、そんなに急かさないで。お願いだから、せきたてないで。
 
わたしはまだ、どうしても。
あと少しだけここにいたいのよ。
 
反抗するように、目を閉じた。視界の代わりに聴覚が敏感になって、あらゆる音が大きくなる。風に揺られた緑の葉、カラスの鳴き声、どんどん離れていく教授の足音、そして谷川の――
 
「……あっ!」
 
はっと、両目を見開いた。ずいぶん先を歩いていた教授が、声に気づいて振り返る。
 
「教授、分かりました!」
 
「何が」
 
「琴坂の由来です」
 
そっと両耳に手をあてる。水の流れる音が、じゃれるように鼓膜を震わせた。
ああ、やっぱり。きっと、そう。
 
「音です。谷川のせせらぎが、琴の音のように聞こえるから。そうでしょう?」
 
教授は何も答えない。正解とも不正解とも教えてくれない。ただ、眼鏡の奥の黒い瞳を、すぅっと優しく細めるのだ。それでいい。わたしたちには、それだけでいい。
 
透明な風がわたしを押す。転がるように走り出し、子供の頃に戻ったように、全力で両腕を振った。あれほど重たかった足はもう、羽根のように軽い。急に駆け寄ってきた教え子を、教授は呆けた顔で迎えた。
 
「わたし、もっといろいろなことを知りたいです」
 
息が弾んで、上手に喉から声が出ない。額がじんわりと汗ばんで、髪だってもうぼさぼさ。だけど、そんなこと、もういいの。どうなっても、気にしないの。
 
呼吸を整えるより早く。髪を梳くより先に。
あなたに、伝えたいことがある。
 
「卒業するまでの間でいいんです。もっともっと教えてください。きれいな花や、おいしい甘味や、お寺の歴史を。写真を撮るくらいしかできないけれど、わたし、一つでも多く知りたいんです。京都のおもしろさを、間崎教授に、たくさん教えてほしいんです」
 
眼鏡越しの黒い瞳が、星のように何度も瞬いた。珍しく戸惑っているようだった。愚かで、決して美しいとは言えないわたしの姿を、頭のてっぺんから足の先まで、観察するようにじっと見る。
 
やがて教授は、「何を言っているんだ」と、あきれたように息を吐いた。
 
「いつも教えているでしょう――琴子さん」
 
ふいにこぼれたその微笑みは、雨上がりの空のように、どこまでも透明に澄み切っていた。
 
 
 

正式名称  興聖寺(こうしょうじ)
山号  仏徳山
宗派  曹洞宗
創建年  天福元年(1233年)
住所  宇治市宇治山田27
電話番号  0774-21-2067
URL  http://www.uji-koushouji.jp
アクセス  ・京阪宇治線宇治駅より徒歩15分
 ・JR奈良線宇治駅より徒歩15分
拝観時間  9:00~17:00
拝観料  庭園無料 建物内部は志納金(一口300円)が必要

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