3−16 今日もまた「東林院」

夕飯を早めに済ませたわたしたちは、日が沈むのを待ってから東林院に向かった。
 
「東林院は『沙羅双樹の寺』と呼ばれている」
 
「沙羅双樹って、平家物語に出てくる、あの?」
 
そうだよ、と間崎教授が言った。
 
「沙羅の花は、朝咲くと夕方には散る一日花なんだ。日本では夏椿と呼ばれる」
 
「一日しか咲かないなんて、儚すぎます」
 
「ちなみに、花言葉は『儚い美しさ』」
 
「最高です、最高に儚いです」
 
ぜひともこのカメラで撮りたかったものだが、あいにく時期がズレている。通常東林院は非公開で、1月の「小豆粥で新春を祝う会」、6月の「沙羅の花を愛でる会」および10月の「梵燈のあかりに親しむ会」の時だけ拝観が可能らしい。
 
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」
 
平家物語の一文を、歌うように口ずさんだ。普段は意識せずとも案外覚えているもので、続きもすらすらと口から出てくる。
 
「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
 
「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽(おうもう)、梁の朱忌(しゅい)、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず……」
 
「分かりました、参りました」
 
わたしは早々に白旗を上げた。顔がよく見えずとも、得意げに笑っているのが分かる。わたしってちょっと天才かも、なんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしい。
 
東林院の門には、オレンジ色の光を放つ提灯が二つ、両脇に吊り下げられていた。高台寺の時のような妖しさはなく、ほっと心が安らぐような光だ。
 
石畳の上を歩いていくと、「梵燈のあかりに親しむ会」と書かれた灯篭があった。梵燈とは、煩悩を消し去る明かりという意味だよ。教授が言った。
 
「わたし、煩悩だらけかもしれません」
 
「たとえば?」
 
「たくさん食べたいし、たくさん寝たいし、たくさん写真を撮りたいです」
 
「小学生かな」
 
それに、今がずっと続いてほしいです。そうつけ足したかったけれど、言わないでおいた。
 
堂内は暗く、夜の闇に身を浸していくような感覚があった。拝観者はたくさんいるのに、お互いがお互いの存在を認識させないように、無意識に気を遣っているような気もした。誰も彼もすり足で進み、呼吸を浅くし、生命の気配を消しているようだ。
 
ふと隣を見ると、教授がいた。蓬莱の庭はあっちだよ。そう、わたしだけに聞こえる声で、わたしを導いた。
 
突如、いくつもの灯が視界いっぱいに広がった。ろうそくや灯篭の火が、生命を持ったようにゆらゆらと揺れている。
 
よくよく見ると、灯篭には「今」と「日」と書かれている。そしてろうそくが集まって、「亦無事」という文字を形作っていた。
 
「こんにちもまたぶじ、と読む」
 
どういう意味だろう。そう思っていると、教授が小さな声で教えてくれた。
 
「元々『無事』という言葉は、ありのままという意味なんだ。人は平凡な毎日を過ごしているとよい出来事を求めてしまうが、平凡であることほどよいことはない、という禅語だよ」
 
「平凡、ですか」
 
その言葉は、正直あまりすきではなかった。自分は平凡な人間で、それは動かしようのない事実なのだけれど、だとしたら自分の価値は何なのだろう、と考えてしまうことがあった。
 
でも、毎日は平凡である方がいいのかもしれない。最近のわたしは忙しなかった。発表の準備に明け暮れ、教授がいなくなるかもしれないと動揺し、卒業を意識して眠れなくなった。でも、まだ日々は続いていく。いつか別れが来るとしても、それは今じゃない。今日も、無事に一日が過ぎていく。
 
この平穏で平凡な日常が、贅沢品であってはならない。この会話が、この日常が、特別な日であってはならないのだ。
 
間崎教授は、照らされたもみじの美しさを、風に揺らめく灯の儚さを知っている。わたしもそうありたいと思う。教授が美しいと思うものを知りたい。そして同じように、美しいと思いたい。少しでもこの人に近づけるよう、わたしは写真を撮るのだ。
 
 
 
 
 
東林院から出ると、あいまいだった自分の輪郭が、くっきりと浮かび上がったような気がした。大きく深呼吸をして、先を行く教授のあとを追う。「素敵でしたね」と声に出したら、空っぽだったこの体に、生命が戻ったように感じた。
 
「ライトアップってもっと豪華なイメージがありましたけど、こういうささやかな光もいいですね」
 
「ああ、来てよかった」
 
空を見上げると、ちかちかと星が瞬いていた。先ほどの明かりとはまた違う、遠い宇宙の彼方にある光だ。雲間から月が顔を出し、教授の横顔をやわらかく照らした。
 
「来月はもう、紅葉が始まるな」
 
確かめるように、教授が言った。
 
「今年は高山寺に行くんですよね。鳥獣戯画、見てみたいなぁ」
 
「神護寺にも行こう。結構ハードな場所だが」
 
「ハードって、どういう意味ですか」
 
「行ってみたら分かるよ」
 
「楽しみです。写真、たくさん撮りたいです」
 
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。わたしは再び口ずさんだ。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。教授が声を重ねた。
 
今日もまた、無事でありますように。平穏なこの日々が、いつまでも続きますように。そう願いながら、わたしたちは星空の下を歩いていった。


エリア #きぬかけの路
テーマ #寺院 #季節の行事
季節 #

名称 東林院
別称 沙羅双樹の寺
院号 東林院
宗派 臨済宗妙心寺派
寺格 妙心寺塔頭
創建年 享禄4年(1531年)
住所  京都市右京区花園妙心寺町59
電話番号 075-461-5786
アクセス 嵐電「妙心寺駅」徒歩5分
市バス(系統:10、26)「妙心寺北門前」徒歩すぐ
JR「花園駅」徒歩8分
市バス(系統:91、93)「妙心寺前」徒歩3分
京都バス(系統:62、63、65、66、67)「妙心寺前」徒歩3分
拝観時間 通常非公開通常非公開。毎年3回特別公開が行われる(日程は年によって変わる場合あり)。 
「小豆粥で初春を祝う会」:1月15日 〜 31日
「沙羅の花を愛でる会」:6月15日 〜 30日
「梵燈のあかりに親しむ会」:10月中旬
拝観料 1月 3800円(小豆粥と精進料理の料金含む) / 6月 1600円(抹茶菓子つき) / 10月 600円
参考 最新の情報はHP等でご確認ください。

HOME | 第3章 | 物語 | 3−16 今日もまた「東林院」